長いような短いようなというのは、ありきたりの言い方ですが、
夜明け前に母が自宅に戻ってから5日目、明日はやっとお通夜です。
時間があった分、こまごまと打ち合わせやら準備やらはできましたが、
毎日のように電話とメールとファクスのやりとり…。
なにしろ身内がみな遠いものですから、誰が来るの誰がお通夜だけのと…
書き直したメモがどれだったか、わからなくなったり…いったい誰と誰が来るねん!。
とまぁ葬儀までもがマンガのとんぼではありますが…父はこまごまと仕切っております。
私も毎日、実家に一度は必ず行っておりましたが、きがついたことがあります。
父の服装…父はだらしのない人ではありませんが、母ほどおしゃれではありません。
いつも母に「コレが似合うし、コレにしとき」といわれて、しゃれたセーターなど着ておりました。
母を迎えに行ったときは、もう寝る前の普段着、半天だけほっぽって行ったわけですが、
次の日から毎日着るものがかわりました。暖かいときはベスト、ちょっと寒い時はカーディガンやセーター。
それらはみな、母が父のために手編みしたものでした。
私はトシのせいもあるのか、はたまた性格の悪さか、母が亡くなってもオイオイとは泣けませんでした。
どちらかといえば、病み疲れた母を見ていて切なかったですから、ようがんばったなぁと
ほっとするキモチの方が大きかったのです。いつかは来る日…とずっと前からおもっていましたし…。
それが父のベストやセーターを見て、なんだか胸の奥がきゅーんとなりまして…。
母はしあわせものですねぇ。
私は、実父がなくなったとき、11歳でしたが、火葬場の帰りに骨壷を抱えて帰ってきました。
さっきまで姿かたちがあったものが、こんなふうになっちゃうんだ…と、何かフシギな思いでいたことを覚えています。
10年若返るほどきれいにしてもらった母を見るのも、明日が最後です。
とても当たり前のことなのですが、私にとって「死」というものは、
「決して言葉を交わすことができなくなる」、そういうことなのだという思いが一番強いです。
元気でいれば、生きてさえいれば、会うことも電話で話すこともできる…声がだめなら手紙でもいい、
それができなくなることです。思いを伝えられなくなる、というより、伝えても返事がこないということです。
親は子に、師匠は弟子に、先生は生徒に、年寄りは若い者に…毎日何かを「伝えて」暮らしているのです。
もちろん伝えるのは言葉だけではありません、その生き方、その方法、その考え…
子は親の背中を見て育つと言います。言葉という具体的なことがなくても「伝え」られます。
亡くなった人のことでも、何を残してくれたか、何を教えてくれたか、
それをずっと感じて大事にしていくことが、生きているものの努めだと思います。
ただ、そういうことに対して「ありがとね」といっても、もう届かない、
おかぁちゃんやったらどないする?と聞いても答えがない…
それが悲しいというのが、「死」というものによる別れだと、そう思うのです。
母に聞きたいことはまだまだありました。でも、少しつかれてしまった母の頭脳では、
もう答えられないこともありました。もっと早くにきいておけばよかった…そんな思いもあります。
「言っておけばよかった」「きいておけばよかった」そんなことが少しでも少ないように、
「伝える」ということを、いろんな場面で、大切にしたいと思っています。
おかぁちゃん、ありがとね。
ありがとうございます。
まだピンときていないのかもしれません。
時間をかけての「送り」となりましたので、
それなりに足元を確かめながらの覚悟でした。
これからど~んと、くるのかもですね。
ちょっと風邪を引きましたが、
やっと終わったので、少しラクです。
春には京都に行きたいと思っています。
ありがとうございます。
通夜は晴、告別式はたいへん寒かったですが、
降られずにすみました。
気がついたら12月も半ば…で、
なんだかびっくりしています。
ありがとうございます。
私は母が伝えたかったことを、全部は受け止められていないと思います。
逆に母が何気なしにやっていたことの中から、
教えられたこともたくさんあります。
親子ってふしぎですね。
私の話から、何かひとつでも、誰かの心に
「あぁそうなんだ」と、
残ることがあったら…そんな気持ちです。
父はすっかり涙もろくなってます。
夫婦というものも、またフシギなものですね。
ちょっと風邪を引きましたが、大丈夫です。
ありがとうございます。
のびたおかげで、風邪の状態最悪のときに
やらずにすみました。
ナニが幸いするやらです。
まだ鼻水とまりませーん(バッチィなぁ)
ありがとうございます。
私も、人生のしまい方」を思うトシです。
死に様は生き様といいます。
とかく今の世ではわすれられがちな「謙虚さ」とか
「感謝する」とか、実は基本なんだなと思います。
今回、京都の身内がたくさん来たのですが、
関西では「火葬場」で何日も待つということはない…と
とても驚いていました。
新しくできた火葬場で、それはそれはひろいのに、
これでも足りないのかと、ちと驚きました。
都会って、なんかヘン?
お元気な間にお母上にお会いしたかった。
四月に亡くなった母の時は意識不明の五年を経た後の死ですから、悲しみは殆どありませんでした。
しかし、ちょっと前まで憎まれ口をたたく母上に苦笑いで相手されていたのですから喪失感は凄いものだと思います。
葬式が済んで片付いて、ホッとしてから思い出すものです。
去る者は日々に疎しと言いますが、私の場合は半年済んでも思い出す事が少なくはなっていません。
生きている時より増えた位。
しかし、忘れてあげないとしっかりあの世に行けないと言う人もいます。
悔いや悲しみも自然な時の移ろいが解決してくれる筈、どうぞお疲れが出ません様に。
晴れて大手ふっての旅立ちの方があってるかな、なんて
独り決めしつつ、手をあわせています。
どうかお身体大切に。
なんと言ったらいいか、うまく言葉にならないのですが、私は いつもとんぼさんととんぼさんのお母様に感謝しているんです。
お母様がとんぼさんに伝えてくださったことがとんぼさんの中に根を張っていて、その上にどんどん伸びて行くとんぼさんの豊かな知識やお知恵を分けて頂いて、私は着物がもっと好きになりました。
お母様を大切に大切になさっているお父様の数々のエピソードも、老いて行く事への寂しさをはね返すほどに心強いものです。ありがとうございました。
知らず知らず疲れも溜まっていることと思います。どうぞご自愛ください。
この言葉以外、うまい言葉が見つからず、カキコミできずにいました。
混んでるからとの理由は兎に角、ゆっくりその時を迎えられたのは良かったですね。
お忙しい日が続くかと思いますが、どうぞご自愛ください。
心からお悔やみ申し上げます。
とても良いものを読ませていただきました。
とんぼさんのお気持ちがつ渡ってきます。
私もこの年齢になって人生の閉じ方を考えることがよくあります。
逝く時も見送るときも「ありがとう」と言える人生でありたいと思います。
まだまだお忙しい日々が続きますね。
どうぞくれぐれもお体大切になさってください。
P.S 都会のお葬儀のお話を読ませていただ いて本当にびっくりいたしました。
そんなに混んでいるとは!
田舎では考えられないことです。
ところによって違うものなのですね。