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先日の「古い本での自分流着方」、その延長上のお話になりますが…。
いつにもまして「長い」ので、ごめんなさいです。
先日来の「着物の着方」も、教える立場の人が意見を固定しないでほしいと思うのです。
あの記事にも書きましたが、一度着物というものがすっぽり抜け落ちてしまった時代からの人たちは、
情報の積み重ねがないまま始まるのです。
確かに「きれい、美しい」というレベルや内容は、時代とともに変わっていきます。
今の時代、体格もよくなり、若い方は手も足もすらりと長いです。
それに昔のことをなんでも当てはめようとは思いませんが、
長い着物の歴史の中で、どう着たら美しいかというのは、女性たちはずっと考えてきたわけで、
それは着物が廃れてしまう直前まで営々と積み重ねられてきたものです。
その後、戦争のおかげで着物が着られなくなり、やっと着られるようになっても、
今度は洋装に負けまいと、妙にウエストを絞って着てみたり、スーツの上着のような丈の短い羽織になったり…。
でも、それらはいっときの流行として淘汰されて、その中でも便利なものや、その方がいいというものは、
ちゃんと残ってきたわけです。たとえば留袖の比翼仕立て、これは二枚作るより経済的です。
また礼装用の帯締めが丸ぐけから平打になったこと、礼装用のバッグが抱え形が減ったこと。
これらはみな、生活水準も上がり、豪華になってきた礼装用の和服にはその方が合うからとか、
物が入って実用的だからとか、そういう理由で生き残ってきた積み重ねです。
礼装以外にも、こういう「残ってきたもの」があるわけですが、それらの知識が伝達されていないことと、
先日も書きましたが、今、その「積み重ねの結果」を実際に実行している人が余りに少ないため、
着ていない人たちに、情報として積み重なっていないということです。
たとえば、主人は、息子がまだ小さいころに、何年か中国に単身赴任していました。
もちろん中国語なんて全くしゃべれませんでしたが、2年後くらいには、電話で中国語でしゃべっておりました。
特別授業を受けたわけではありませんが、毎日まわりに何百人もの中国人がいて、
英語と中国語が飛び交うわけですから、仕事となれば嫌でも話すようになるわけです。
でも、主人は言っていました。「仕事に関するような話と、レストランだ買い物だというようなときは、
だいたいOKだけど、だからといって仲良くなった人に人生相談もちかけられてもなぁ」と。
つまり「情報」が偏ってますから「そのあたりだけならわかる」です。
着物の情報がほとんどない状態で着物を着ようとしたら、当然習うところから始まります。
昔なら親が教えたり、親の着方を見て自然とおぼえられたものを、お金を払ってならわなければならない…。
これは仕方のないことですが、だからこそ「教える立場の人たち」「売る立場の人たち」は、
正しい情報を伝えなければ、偏ってしまうわけです。
正しい情報というのは「でなければならない」とか「~と決まっている」ということではありません。
「いろいろある」ということそのものです。
今、私が気になるのが、下半身をまっすぐ、裾線をまっすぐに着せる…という着方。
昨日のお客さまの話がそれだったわけですが、そのかたは昔から着物ですので、
着物を着るときは、右前を持ち上げて左に巻き込み、左を重ねて、褄先を床から何センチか上げる、
つまりよくいう「裾つぼまり」に着てきたわけです。
着付け師さんが振袖を着せるのに、いかにもま裾がっすぐで平らなので、少しあげたら?と言ったら
「私の習った学校ではこうなんです。私はこう教えられましたから」と言われてしまったと…。
私、まっすぐが悪いとか、それは間違っている、と言っているわけではありません。
上にも書いたように「そういうのも今はある」ということです。
これは、以前にも書いたのですが、私の勝手な考えで、今のあのまっすぐ着付けは
「本」の影響がけっこうあるのではないかと思います。情報と言ったら、本を見るくらいしかないわけですから、
「美しいキモノ」とか、ああいったものを見る…あの写真を見ると、特に絵羽柄「訪問着や留袖」などは、
みな裾、というより前身ごろ帯の下がまっすぐです。あれはキモノの柄をまっすぐに見せるには効果的です。
実際に裾つぼまりに着ると、柄が少し斜めになります。トップ写真もそれで出しました。
ここちらにもあります。確かに、ちょっとななめになっているだけですが、
人は壁の絵が曲がっていると、まっすぐしたくなりますね。
その意識で、こうなっているよりは、まっすぐな方が見た目が安定するわけですね。
またほとんどの写真は本人の左、つまりこちらから見ると
右側斜め前が多いです。
絵羽柄の場合は、その「脇からうしろへ」続く柄を少しでもみせるためもあります。
写真は着物の色柄や、着てみた雰囲気を紹介するためのものですから、
スナップではなく、一番「整えた」形で撮ります。だから胸の両脇にきれいにまっすぐなタックが入り、
うしろを向けばお太鼓の上の左右にきれいに二本タックが入る…。
ああいうお仕事に携っている方のお話を聞けば「後ろは洗濯バサミでとめてたりする」…。
それでいいのです「写真」なんですから。
本の写真は、その着物の色柄や着た雰囲気を伝えるものですから、できるだけまっすぐにシワなくすっきりと、
それは当然のことです。でも、その写真の着物を買ったとして、それを着た人がじーっと立っているわけではありません。
私が大切だと思うことは実際には「着物はそれを着て動くものだ」ということです。
着物の美しさは、動いたときの布の動きにある…と私は思っています。
洋服の場合は「デザイン」という、とても大きな強みがありますから、たとえば布の広がりとか、
風や動きによっての揺れ とか、ドレープとか、そういうものが出るように最初から形が作れます。
フレァ・スカートなどは、布として裁っているときはただの「扇形」ですが、
つなぎ合わせて穿けば、あの大きなうねのような状態になり、歩けばそれが優雅に揺れます。
薄くて細いストールを首に巻けば、きれいなドレープができ、風にひらひらとなびきます。
着物は、その「デザインの自由」がありません。凹凸のある人間の体に、長方形でできた大きな布を巻きつけて、
あちこち縛ったりしわめたりして着るわけです。
それではどこで「動きの美しさ」を出すか…それが着方と縫い方によるわけです。
あの、まっすぐに着るのはよけいなシワをださないため…というお話があると聞きますが、
なぜ「シワ」を嫌うのか…それがあの「ウツクシイ写真」ではないかと、私は勝手に思っています。
実際に着物を着たら、立ったり座ったり、歩いたり階段登ったり、振り向いたりお辞儀したり…。
そういう動きをすれば、必ずどこかにシワもでるし、ひらひらと動くところも出ます。
それごと「美しく」見せるのが「そのひとにあった着付け」ということではないかと思っています。
こちらのかたあの「自分流の着方の本」の中の一人です。
私もこれに近くなりつつある「ぽっちゃりさん」です。
これで下半身をまっすぐ長方形に見えるあの着方をしたら、よけい下半身の太さが目立ちます。
左のようにコートを着たとき、下がすぼまっていると、きゅっとしまってすっきりみえませんか?
裾つぼまりできると、足首の方が細くなりますから、右足を前に出すと上前が外にめくれます。
そして次に左足を出すと、そのめくれたものが元に戻ります。
この連続で上前は八掛の色をチラチラとみせながら、起きたり寝たりするわけです。
また立ったとき、ちょっと足を引くと、ひざのうしろあたりにUの字型のドレープができます。
まっすぐ立てば消える、ちょっと一歩踏み出すと現れる…。こちらの写真がそうですね。
このシワ、みっともないですか?これは紬っぽいですが、これが柔らかものだともっときれいにドレープします。
私はこのドレープごと、きれいだと思うのです。
もうひとつ、これはずっと前に写真入で説明した記憶があるのですが、記事がみつかりません。
(gooの検索機能がとても鈍くなったのです)
なのでもう一度書きますが、洋服の肩線(縫い目)はどこにあるかというと、肩の真上ですね。
着物の肩線は、構造上縫い目はありませんが、畳んだとき肩にある折り線です。
これは着ると後ろにズレます、肩線が肩にのらないのです。これは女性が衿を抜いて着るため、
最初から「繰越」という「着ると後ろにいく」作り方をしているのと、更に実際着るときに衿を抜くからです。
洋服の袖山(そでのてっぺん)は、肩山とあわせますから、着ると袖の頂点も肩の頂点にあります。
でも着物は、縫うときは袖の肩山と身頃の肩山を合わせて縫いあわせても、着るときに後ろにずれますから、
袖山も後ろにズレます。この「ズレ」のおかげで、女性の着物の袖は外側に流れ、
腕にかかる袖の部分が三角に膨らみ、袖口で縫い止っている下の「袂」が斜めに落ちる…。
文字で書くとわかりにくいですが、見ればまんま、これです。
元々「袖」というのは、奈良時代から「長いもの」であって「その袖を振る」というのには、
「アナタの魂をここにつなげて…」という意味もありました。
安土桃山のころには、逆にほとんど七分袖ののようにみじかかったり、また身幅が狭くなり帯が広くなると、
袖は手首のほうにではなく、下に向かって長くなり、たもとという呼び名もつきました。
本来、袂なんてものは、なくても別に困らない、むしろ手をあげたら何かにひっかかったりする、
「余分な布地」です。決して実用的部分ではありません。だから「野良着」や「仕事着」の袖は「袂」がありません。
その「余分なものがナゼついているのか」、それは、それの動きが着物姿全体のダイジな「美のパーツ」だから。
筒型に腰に巻きついていればいいスカートにひだをつけたり、なくてもいいスカーフを巻いたりするのも、
より「表現」するためです。着物の袖や、長い下半身は、形を変えることはできなくても、
その動きによって、やさしさやキッパリ感、愛らしいとか、女らしいとか、きびきびしてるとか…
そういう全ての表現のできる、優れた形なのだと思っているのです。
ちなみに男モノの方には繰越がありません。着るときも衿を抜きません。
だから男の人の着物は肩から腕に一直線に「折り線」がのっています。
両手を下げると、女の人のように袖が三角にならず、両脇にぴんと張ります。
男の場合はこれが男性的な印象になります。
また男の人は、対丈ですしそんなに巻き込んで着ませんし、前褄を女性ほど大きく上げたりはしません。
これは男の人は元々歩幅も大きいし、歩くのも外また気味、帯や腰紐の締め位置も女より下ですから、
下半身の着崩れはほとんどありません。以前も書きましたが、男の着物はおはしょりがない分、
そのまま座ると背縫いが下にひっぱられるので、上が着崩れます。
だから、女とは逆に、着たら帯の結び目左右の上を少し引っ張り上げて、上半身にゆとりを持たせるのです。
このときの帯の上にできる逆U字型のヒダも、かっこいいものです。
着物の前褄を上げるのに「何センチ」とは決まっていません。
先に引き込む右前の方を左より上げる…柔らかモノは紬系より上げる…それくらいでしょうか。
こういう決まりごとは、目安です。だから「裾線をまっすぐ着る」のが流行っていても、
それが間違っているとは言いません。
ずっと言い続けているように「積み重ね」があり、それがあるから「残るもの」がある。
ナゼそうなのかには、必ず意味がある。もし、勝手な想像の「シワがないほうが」「柄がまっすぐに見える方が」
「見た目が長方形の方が」というのなら、それの根拠がしっかりしていれば、そのように着ればいい、
そう思います。でも、「そう習った、私はそう教わった」ということを、違う意見の相手に押し付けるのは、
プロとしては、間違っていると思います。だから「もっと知ってください」というのです。
そして「正しいこと」、つまり「実はいろいろあるんだけれど、うちではこれがきれいに見えるから、
この方法でやっています」ということを教えてほしいと思うのです。
私は、着付け教室に行ったことがありませんから、「やってるわよ、そんなこと」といわれたら、
ゴメンナサイ…しかありませんが、テレビなどの媒体で、一律おんなじ恰好でずらりと出てきて、
これが普通よ…となると、違うのはどこで見られるのかな?と思ってしまうのです。
着物の着方は「基本編」は、別に何日もやらなくたってすぐに覚えられます。
あとは回数こなせばコツもわかってくるし、着るのに要する時間も早くなります。
大切なのは「応用編」なのです。そしてそこから先は「自習」なのだと、しっかり自覚しないと、
おそわった基礎編から抜け出せないし、応用編の楽しみもわからないのではないかと思っています。
ほんとに長くなってしまいましたので、ご紹介したい本のお話はまた明日…。
お疲れさまでしたー。
まさに、その通りだと思います。私はきものを着始めてから5年、休日にしか着ませんが、(平日は仕事なので洋服です)着物、特に柔らかものは裾つぼばりになるように着ています。私は幸いにも生前の祖母が着るところを見ていたので、自然におぼえられたのですが、そういう機会のない方々は着付け教室で教わったまんまに着るんですね。深く考えもしないで。
大手の着付け教室に通った時期がありました。楽な着方や器具を使った帯結びも教わりました。
腰紐の代わりに幅広のゴムベルトを使いましたが、汗が篭るので気持ち悪く、
結局従来の腰紐に戻りました。美容衿は衿が立ってしまうし、襦袢と連動しないのでボツ。
帯結び用の器具も、結局どこかにしまったままです。やったりオーソドックスが一番です。
私は裾つぼまりに着る方がスマートに見えるので好きですね。
後ろから見ると、八掛けの美しい色がヒラヒラ見えるのも良いです。
わかったのは、なぜ?に対する答えはじぶんで探すしかない、ということ。
かんがえてじぶんでだした答えには違う意見を受け入れる余裕がありますが、他人の意見の受け売りではそれは無理。
なんでもじぶんでかんがえることが大切ですね。
たとえば、敏感肌で、ミルククレンジングで
水をふくませたカット綿で、そっとふきとって
水で洗い流す…というと、いっせいに洗った気がしない!
と必ず(笑)です。年代や体型の変化は、
必ずお肌にも出ますから、その時々で見直すはずのものが、こうならったので…で、まぁかまびすしいです。
それをしないと美しくないって、どうなんでしょうか。
きれいに習ったとおり着付けられているか?の不安って
そう着付けていない方への差別につながるのではないでしょうか。ぜひ教本に「揚げ足をとるのはあさましい行為」と、足してほしいものです。相手に恥をかかせないのが
日本は人の美徳ではないかとおもいます。
裾を踏む事も・・・
モデル立ちしているだけならいいけれど、やはり動く事を考えて、習った事を押しつけるより
より良い方法があればとりいれる柔軟さは
必要ですよね。
記憶の中にある…というのは、ありがたいですね。
言われたまま、というのは安心でもありますが、
自分で考えることがないと、工夫も進みませんよね。
それがもったいないと思うんです。
もっといろんな「情報」が広がるといいと思っています。
着物関係でゴムを使うと、伸びた場合に着物がずれたり、
こすれて絹が傷んだりします。
道具類も、昔は教室で買わされたりしたらしいですね。
気楽に楽しく着ることに慣れていけたら、一番です。
しばりつけるものではありませんよね。
着付け教室に限らずですが、最近は「知識」として詰め込むばかりで、
自分で考えることが減っていますね。
考えたり探したり、喜んだり落ち込んだり、そうやってみつけたものは
身につくんですよね。
先生が言ったんだから、まちがいない…と、それはある程度はわかりますが、
自分で考えることや、相手を認めないことは、自分の世界も狭くしてしまいますからねぇ。
風潮とは言いたくないですが、なんとなくため息です。
自分の習ったことや覚えたことで、それがちょうどいいなら
何も問題はありませんが、人にまで押し付けられてもですよね。
私も時々すそ踏んでますわ。まっすぐ着たら、毎日踏みますね。きっと。
お二方とも裾つぼまりで着るように、ただし、留め袖とかは真っ直ぐにして着ることが最近は増えてきていると付け足されていました。どっちでもいいけど、Aラインにならないように!!と。
私は言われた通りにも着られず、意図せず、とりようによっては応用編みたいな着方になっているような、、、^^;
いつもとても勉強させてもらっています。読んでいて楽しいです。これからも長文大歓迎、みっちりとお願いします。
最近の地味な着物(洋服感覚というのでしょうか)についてのお考えを、いつか聞かせていただければ嬉しいです。
その着付師さんは、自分で着られない最近よくいるタイプかもしれません。
美容師免許を取るのに着付けも習うらしいんですが、自分じゃ着られない。
自分で着たことなく、人に着付けるのを習うので、応用が利かない。
その着付師さんには、裾をちょっと上げるのができなかったんだと思います。
友達に着付けを教えることもあるんですが、案外、裾つぼまりはやったことがない人にはできないみたいで(^^;)難易度高し。
自分で着たことがあれば、何度も着ていれば、着やすさは経験で判断できると思うんですが。。。
もう、今はお金を取るからといってもプロじゃないんですよね。
雑誌は読者モデル(読モ)使って、タレントはその辺の目立ちたがりの娘を使い捨てAKB(ーー;)
気持ちのいいプロの仕事が見たいですね~。
お太鼓ひとつ締めるにしても、結び目を作る、作らずねじる、
折りたたむ、器具を使う、etc.ですものね。
いろいろ試して自分に合った方法を、時にはブレンドして、
身につけるものだと思います。
知り合いに、すごく変則的な着方をするのに
「これがいちばん正しい!」と主張する方がいますが、
そういうのもどうかな~と、いつも思っています。
そう「Aライン」にならなければ、自分にあった方法でいいわけです。
あの「まっすぐ着付け」は、Aラインになりやすいと、
私は感じでいるんですけどねぇ。
ジミな着物、これも気になることの一つです。あれはおっしゃるとおり、
洋服感覚なのだと思います。
なぜか、いろいろなことで「洋服」だとわかることが、
着物だとわからなくなる…みたいです。
以前に一度書いていると思うんですが、また考えて見ましょうね。
洋装とか、洋髪(これもまた死語ですかね)なら、
あたしがあたしが…とでてくるのに、
和装ごととなると小さく固まってしまう…。
プロ、セミプロ、アマの境目が、
いろいろ曖昧になっている気がしますねぇ。
元々親がそれぞれに教えていたものですから、
そんなに大きな違いがあるわけではなし、
方法は柔軟に考えればいいんですよね。
何も知らない人がひとつ覚えると、
鬼の首でもとったように…になったり、
それだけが正しい…になったり、
そういう危険性がありますね。
探してみましたがわかりませんでした。
重複質問になってしまって失礼しました。
私は着付けを習ってから1年半ですが
最近、やっと比較的さっさと着られるようになり、
でかけるのが楽しくて仕方ありません。
コーディネートの参考に、本もよく見るのですが、ずばりお手本にしたいようなのがなかなかありません。
礼装やお茶会用の正統派着物は別として、今、本屋さんでよくみるのは、
「大人」(笑)向けは地味なスーツみたいな着物派(質が良くて、確かに素晴らしい、でも、没個性なところがそそられない)、
昔だったら装苑とか流行通信とかオリーブあたりのファッション誌でガイジンモデルが着てそうなアンティーク着物に洋装をマッチさせたモード派(これが一番ワクワクするんですが、ちょっと目立ちすぎて年齢的に無理が・・・)、
手作りした小物+デニム着物とか木綿・ウール着物のジーンズにセーター感覚派(かわいいけど、気軽すぎて、これはこれで洋服みたいでテンションがあがりません)
に別れているように思います。
地味な着物に限らず、イマの着物の流れについてのお考えをお聞かせ下さいませ
いえいえ、このgooのブログ内検索、以前はキーワードが
けっこう幅広く使えたのですが、今は鈍くてちょっと細かくするとダメなんです。
探しにくくなって困っています。
記憶をたよりに探してみましたら、昨年の12月の記事でした。
と言っても、紬の年齢別着まわし…みたいなことでしたので、
改めて、また考えてみたいと思っています。
とりあえず、紬の着まわしはこちらです。
http://blog.goo.ne.jp/tombo624/e/a1e2d4a88bbee572d29729ef9cfb5b34
着物には(ねばならない、とか、であるべき)が多過ぎて、しかも発信元が着物雑誌や着付け教室だったりするものですから、本当に単純な『纏う喜び』を躊躇わせてしますのだと感じます。
先日もあるカルチャーの着物関係者の言葉にびっくり致しました。彼は『夏の絹の着物は汗で傷むから着て欲しくない。麻の着物は皺になるから嫌いだ』と言います。その上日本人なら着物を着て欲しいとも・・・・・ご自身の美学なのでしょうが、結局自縄自縛で着物離れを助長させるばかりに感じました。
着物ってもっとしなやかな物だと思うのですが・・・
ありがとうございます。
いまや豊富な「情報」が、かえって人を惑わしている…
という気までしています。
おっしゃるとおり、着物はしなやかなものだと思います。
>『夏の絹の着物は汗で傷むから…
着物関係者のお言葉と言うのが、哀しいですね。
汗で傷む絹を惜しんで使う、麻のシワをいつくしんで楽しむ…
そういうのが着物の暮らしだと思いますが。
着物は道具ですから、使うべし、ただし愛着を持って大切に…。
ぼん吉にはこう聞こえます。
「私は習ったとおりの事しか出来なくて、その意味もよくわかんないまま受け売りで教えてるんです。」
なぜそうするかの意味や、それについての考察、あるいは体験も充分でないまま、
マニュアルを絶対だと信じ切って、自分が教えていることに疑問を感じない。
教えられた言葉を充分咀嚼せずに丸呑みして、それで身に付いたつもりでいる。
あるいは、教える側がこれで身に付けた事にしてしまう。
それはおそらく、資格制度にも問題があるのではないかとも思うんです。
知識偏重だったり、点数主義だったり。
それって、今の教育の問題点そのもの。
みんなそれに気付いているのに、なぜ何とかしようとしないんでしょう?
あああ、何だか本題からどこかに行ってしまいそうだ。
今の人って(と、まとめて言うのは失礼かもですが)柔軟性に欠けるように思います。
教育の結果というの、あるとおもいますよ。
丸呑み丸暗記、○か☓か…。
覚えたからそれでいい…みたいな…。
応用問題はやらないのですよね。
自分で考えることがめんどくさいのですかねぇ。