
今日は、本とそこから考えたたこと…のお話です。
なんかまた気を持たせる言い方ですねぇ、すみません。
先日ゲド戦記を読み始めたのですが、なんたって5巻もありますので、
まだ完了していません。おまけに最後の「外伝」が一番「厚い」…。
まず写真は「ハウルの動く城」、の原作本です。
本を映画化、あるいはアニメ化というのはよくありますが、
原作に忠実にするのか、骨子だけでどこか変えるのか、中には
肝心のラストを変えるなんて場合もありますね。
まぁ「監督さん」の思いを伝える手段なわけですから、
どう変えても原作者の了解があればいいんでしょうけれど、
あんまり変えられますとねぇ…。どっちも楽しめるといえば言えますけど!?
私の個人的な好みでいえば「ゲド」は原作勝ち、「ハウル」はアニメ勝ち。
さて、実は本を読んでいる間に、八王子の凄惨な事件が起きました。
相変わらず「誰でもよかった」…、なら自分か家族にしておきなさい。
少なくとも、他人様を悲しませたり怒らせたりすることはありませんから。
「ムシャクシャした」、んなもん誰だって毎日何かに腹立ててますよ、
「親を困らせたかった」、目の前でひっくり返ってダダでもこねたら?
「世間を騒がせたかった」、「騒がせた」のではなく
「世間から見放された」ことに気がつきましたか?
八王子も秋葉原も、まさか「心身ナンタラ」で無罪、なんてことに
ならないでしょうね、ごめんですよ。
こういう事件が起きるたびに、ふと思い出す「本」があります。
私が8歳のときに読んだ本です。
そのころ、毎月一冊届けてもらっていた「少年少女世界文学全集」、
今日改めて後ろを見ましたら、私が7~8歳のころから、
50冊、4年以上にわたって届けられていました。その中の一冊です。
「フランス編2」、中は「ああ無情(レ・ミゼラブル)」と「三銃士」、
そのあとに入っています「マテオ・ファルコーネ」という物語。
作家はプロスベル・メリメ、いやーすんません、知りませんでした。
本の表紙、右下に書名が書いてあります。

この物語は「コルシカ島」が舞台です。時代は1800年代。
長くならないように、きをつけてまとめてみますと、
「コルシカ島にマテオ・ファルコーネという男がいた。
彼は羊を飼い、人に世話をさせるなど、まぁ裕福だった。
人柄は『儀に厚く、義侠心が強い』、やくざではないが、
射撃や格闘にはたいへん強い。(当時のこの地域の風潮などもあるのですが、
やくざの親分ではないけれど、強くて人望があって親分肌、ってところ?)
この島は、罪を犯したものでも逃げ込めば生きていかれる、というような土地で
特に、マテオに頼めば「かくまう、逃がす」という面倒を見てくれる、
という、ちょっと裏社会風の「つながり」もあった。
(つまり「助けてくれ」という人間は、たとえ罪人でも見放さない、です)
ある日、罪を犯した男が逃げてくるが、あいにくマテオは留守で、
10歳になる一人息子が応対する。息子は父のやり方もよく知っていたので、
男をわら束の中にうまく隠す。 やがてやってきた軍人(警察)に
最初はうまくやりすごして、追い返すところまでいくのだが、
最後に下士官(リーダー)が銀時計をエサに息子を口説く。
息子は時計の魅力にまけて ついにわら束を指差してしまう。
男は捕まり、引き立てられるところに マテオが帰宅する。
男は「裏切り者の家」と吐き捨てる。
マテオは驚き、息子のしたことを問いただす。
そして…。
マテオは、自分の手で息子を銃殺します。
「ちゃんとお祈りしなさい」といい、息子はありったけのお祈りの言葉をいい、
助けを請いますが、銃殺されます。
この物語の結末を初めて読んだとき、私は子供でしたから、ただ怖かったです。
そして、人に信頼されるとか、誰かと約束するということは、
とてもだいじなことで、それは命を懸けてでも守るべきことなんだ…
というような思いを持ちました。でも、結末はほんとに悲しかったです。
この本については、親になってこれを読んで、
やっぱり結末は納得できないけれど、マテオの気持ちは、
あのころよりも、ずっとわかります。その悲しみもつらさも。
彼は、罪人が引き立てられていった後、女房に尋ねます。
「これは俺の息子か?」と。そして女房がなにを言うかと怒ると、
「それなら、俺の血筋始まって以来の裏切り者だ」というのです。
そして殺すための準備を始めると、女房は「お前さんの子だよ」と叫びます。
マテオは答えます「ほっとけ、俺はこいつの父親だ」。
無差別殺人や、ひどいいじめ、サイトで知り合っての事件などが起きるたび、
私はその容疑者の親のことを思います。
八王子のときは、父親が「申し訳ないことをした」といいながらも、
「相談なんて受けてない」とか「もう別々にくらしているから」とか、
そんなことを言っていました。うそは言ってなくても、
そこにはどこかしら親と子の距離を感じました。
また、別の事件の犯人の母親が「あのこは幼稚園のときにいじめをうけて、
それでかわってしまった」と言いました。なにそれ…。
じゃアンタは自分の子が、幼稚園のときから大人になるまで、
たすけようとはしなかったわけ??
マテオの話の解説には、当時のコルシカという地の地域性といいますか、
そこに住むひとの激しい気質といいますか、お互いの身内意識が強く、
激情的な性質であったことや、家の名誉を傷つけたものは、
たとえ子供でも許さない、といった厳しさのあったことが書かれていました。
それでも、子殺しは、どこまでいってもゼッタイ許せない私ですが、
物語としてみるならば、人の信頼にこたえること、約束を守ることを
モノを得るために違えたわが子に、自分自身も「子殺し」の罪と
十字架を一生背負ってでも、自分の子育てのマチガイを
正面から受け止めたマテオの気持ちは、くんでやれると思います。
これも何の事件だったか、容疑者の父親が
「私が行って、息子を殺したい」といったことがありました。
命のやり取りは、困りますが、このときの父親の気持ちは、
マテオと同じ「とてつもなく愛しくて、悲しくて、つらくて、情けなくて、
そして息子に申し訳なくて…」ではなかったかと思うのです。
よく、「事件のたびに、親にインタビューをするけれど、
犯人はもう大人なのだから」というようなことが言われます。
確かに、大人なんですから親まで出さなくても、ということも
いえるかもしれませんが、人はみな日々の積み重ねで
自分を創っていきます。その土台となるのは「子供のころの育ち方」です。
世の大部分の人が、ムカつこうが、トモダチがいなかろうが、
ギリギリのところで持ちこたえて生きています。
それはやっぱり「子供時代」の積み重ねがどこか違うのだと思います、
そういう意味で、マテオは「間違った積み重ね」を、そこで絶ってしまった、
そういう物語ではないかと思うのです。
もちろん、今なら「きちんと諭して、やり直させる」、ですが。
「とっくに家を出てしまって」とか「何もいわないから」とか、
親がそういうのを聞くたびに、それはアナタの「逃げ」ではなかったのですか?
と、聞いてみたい私です。
なにやらオモターイお話になってしまいましたが、
ネットへの「殺人予告」がたえないとか、そんなことを耳にするたびに、
ひとりぼっちでさまよう「危うい心」を助けるすべはないものかと、
そんな風に思います。あるキャスターがいいました。
「秋葉原も池袋も八王子も、『とめることができた』事件だと思う」と。
なんかまた気を持たせる言い方ですねぇ、すみません。
先日ゲド戦記を読み始めたのですが、なんたって5巻もありますので、
まだ完了していません。おまけに最後の「外伝」が一番「厚い」…。
まず写真は「ハウルの動く城」、の原作本です。
本を映画化、あるいはアニメ化というのはよくありますが、
原作に忠実にするのか、骨子だけでどこか変えるのか、中には
肝心のラストを変えるなんて場合もありますね。
まぁ「監督さん」の思いを伝える手段なわけですから、
どう変えても原作者の了解があればいいんでしょうけれど、
あんまり変えられますとねぇ…。どっちも楽しめるといえば言えますけど!?
私の個人的な好みでいえば「ゲド」は原作勝ち、「ハウル」はアニメ勝ち。
さて、実は本を読んでいる間に、八王子の凄惨な事件が起きました。
相変わらず「誰でもよかった」…、なら自分か家族にしておきなさい。
少なくとも、他人様を悲しませたり怒らせたりすることはありませんから。
「ムシャクシャした」、んなもん誰だって毎日何かに腹立ててますよ、
「親を困らせたかった」、目の前でひっくり返ってダダでもこねたら?
「世間を騒がせたかった」、「騒がせた」のではなく
「世間から見放された」ことに気がつきましたか?
八王子も秋葉原も、まさか「心身ナンタラ」で無罪、なんてことに
ならないでしょうね、ごめんですよ。
こういう事件が起きるたびに、ふと思い出す「本」があります。
私が8歳のときに読んだ本です。
そのころ、毎月一冊届けてもらっていた「少年少女世界文学全集」、
今日改めて後ろを見ましたら、私が7~8歳のころから、
50冊、4年以上にわたって届けられていました。その中の一冊です。
「フランス編2」、中は「ああ無情(レ・ミゼラブル)」と「三銃士」、
そのあとに入っています「マテオ・ファルコーネ」という物語。
作家はプロスベル・メリメ、いやーすんません、知りませんでした。
本の表紙、右下に書名が書いてあります。

この物語は「コルシカ島」が舞台です。時代は1800年代。
長くならないように、きをつけてまとめてみますと、
「コルシカ島にマテオ・ファルコーネという男がいた。
彼は羊を飼い、人に世話をさせるなど、まぁ裕福だった。
人柄は『儀に厚く、義侠心が強い』、やくざではないが、
射撃や格闘にはたいへん強い。(当時のこの地域の風潮などもあるのですが、
やくざの親分ではないけれど、強くて人望があって親分肌、ってところ?)
この島は、罪を犯したものでも逃げ込めば生きていかれる、というような土地で
特に、マテオに頼めば「かくまう、逃がす」という面倒を見てくれる、
という、ちょっと裏社会風の「つながり」もあった。
(つまり「助けてくれ」という人間は、たとえ罪人でも見放さない、です)
ある日、罪を犯した男が逃げてくるが、あいにくマテオは留守で、
10歳になる一人息子が応対する。息子は父のやり方もよく知っていたので、
男をわら束の中にうまく隠す。 やがてやってきた軍人(警察)に
最初はうまくやりすごして、追い返すところまでいくのだが、
最後に下士官(リーダー)が銀時計をエサに息子を口説く。
息子は時計の魅力にまけて ついにわら束を指差してしまう。
男は捕まり、引き立てられるところに マテオが帰宅する。
男は「裏切り者の家」と吐き捨てる。
マテオは驚き、息子のしたことを問いただす。
そして…。
マテオは、自分の手で息子を銃殺します。
「ちゃんとお祈りしなさい」といい、息子はありったけのお祈りの言葉をいい、
助けを請いますが、銃殺されます。
この物語の結末を初めて読んだとき、私は子供でしたから、ただ怖かったです。
そして、人に信頼されるとか、誰かと約束するということは、
とてもだいじなことで、それは命を懸けてでも守るべきことなんだ…
というような思いを持ちました。でも、結末はほんとに悲しかったです。
この本については、親になってこれを読んで、
やっぱり結末は納得できないけれど、マテオの気持ちは、
あのころよりも、ずっとわかります。その悲しみもつらさも。
彼は、罪人が引き立てられていった後、女房に尋ねます。
「これは俺の息子か?」と。そして女房がなにを言うかと怒ると、
「それなら、俺の血筋始まって以来の裏切り者だ」というのです。
そして殺すための準備を始めると、女房は「お前さんの子だよ」と叫びます。
マテオは答えます「ほっとけ、俺はこいつの父親だ」。
無差別殺人や、ひどいいじめ、サイトで知り合っての事件などが起きるたび、
私はその容疑者の親のことを思います。
八王子のときは、父親が「申し訳ないことをした」といいながらも、
「相談なんて受けてない」とか「もう別々にくらしているから」とか、
そんなことを言っていました。うそは言ってなくても、
そこにはどこかしら親と子の距離を感じました。
また、別の事件の犯人の母親が「あのこは幼稚園のときにいじめをうけて、
それでかわってしまった」と言いました。なにそれ…。
じゃアンタは自分の子が、幼稚園のときから大人になるまで、
たすけようとはしなかったわけ??
マテオの話の解説には、当時のコルシカという地の地域性といいますか、
そこに住むひとの激しい気質といいますか、お互いの身内意識が強く、
激情的な性質であったことや、家の名誉を傷つけたものは、
たとえ子供でも許さない、といった厳しさのあったことが書かれていました。
それでも、子殺しは、どこまでいってもゼッタイ許せない私ですが、
物語としてみるならば、人の信頼にこたえること、約束を守ることを
モノを得るために違えたわが子に、自分自身も「子殺し」の罪と
十字架を一生背負ってでも、自分の子育てのマチガイを
正面から受け止めたマテオの気持ちは、くんでやれると思います。
これも何の事件だったか、容疑者の父親が
「私が行って、息子を殺したい」といったことがありました。
命のやり取りは、困りますが、このときの父親の気持ちは、
マテオと同じ「とてつもなく愛しくて、悲しくて、つらくて、情けなくて、
そして息子に申し訳なくて…」ではなかったかと思うのです。
よく、「事件のたびに、親にインタビューをするけれど、
犯人はもう大人なのだから」というようなことが言われます。
確かに、大人なんですから親まで出さなくても、ということも
いえるかもしれませんが、人はみな日々の積み重ねで
自分を創っていきます。その土台となるのは「子供のころの育ち方」です。
世の大部分の人が、ムカつこうが、トモダチがいなかろうが、
ギリギリのところで持ちこたえて生きています。
それはやっぱり「子供時代」の積み重ねがどこか違うのだと思います、
そういう意味で、マテオは「間違った積み重ね」を、そこで絶ってしまった、
そういう物語ではないかと思うのです。
もちろん、今なら「きちんと諭して、やり直させる」、ですが。
「とっくに家を出てしまって」とか「何もいわないから」とか、
親がそういうのを聞くたびに、それはアナタの「逃げ」ではなかったのですか?
と、聞いてみたい私です。
なにやらオモターイお話になってしまいましたが、
ネットへの「殺人予告」がたえないとか、そんなことを耳にするたびに、
ひとりぼっちでさまよう「危うい心」を助けるすべはないものかと、
そんな風に思います。あるキャスターがいいました。
「秋葉原も池袋も八王子も、『とめることができた』事件だと思う」と。
「あの父親」氏の言葉は冷たかった。
そして、娘の同級生に、あれ以上に「子供に関らない親」の犠牲者がいるのです。
こういう事件が続く中で、学校の先生方も、周りの親たちも、できうる限りその親に働きかけていますが、聞く耳持たず・です。
その姉妹は時々悲鳴を上げます。心も何もかもがオーバーヒートしてしまうのではないかと思います。
なんでもない時、授業中などに、突然「うお~~~!!!」っと叫ぶのです。イスを投げたり。
普段は、あいさつもする、「普通の子」で。
止めることができるはず、だと思いたいです。
をまだもってるということは。昔、階成社(だ
ったと思う)とかポプラ社の少年少女文学全集
でああ無情、三銃士、王子と乞食、裸の王様な
どを読んだ記憶がありますが、それらの本はと
うの昔にどこかに行ってしまいました。最近の
子供は、漫画は読んでも、これらの本は読まな
いと聞きます。その辺の情操教育も昔と違って
きてるのが、秋葉原・八王子・東急ハンズ・荒
川沖駅事件に影響があるのかも知れませんね。
教えていないのでは・・・と感じます。
小さい頃から欲しがる物を与えてばかり
では、自分の思い通りにならないと
爆発して感情のコントロールが出来ない
その結果のような気がします。
近頃子供も大人も 辛抱や我慢をすることが出来なくなっていると思います。
豊かさだけを追いかけた 日本の弊害だと思います。
先日髪を切ってもらいに出かけまして
大変な事件があったね、と言ったら
実は…ね、と教えてくださったのが
現場と隣りあいにもうひとつ書店があり
(通路を挟んでです)
そこは全国一番に○リーポッターを売り出すのが目玉で
事件の日はそれでたくさんのひとが行列を作って
夜半からの売り出しを待っていたんだそうです。
小さな子供まで!
血の気が引きました。
まず、無防備に夜半に未成年を並ばせる書店もともかく
一緒にだからいいだろうと
我が子について並ぶ親の無謀さは、あえてキツい言い方を
させていただくなら
犯人の軽率な犯罪動機と同じではないかと思いました。
床屋さんのご主人の話では
どうやら気の小さい奴らしいから、刃物もひとつだし
人が少ない方の書店を狙ったんだろうとの言葉がリアルでした。
紙一重で、おじょうさんを奪われたご両親の気持ちと
子供がほしがるからと並んだ親御さんのいたらなさをくらべて
なみだが出る思いです。
先日表参道で、スマートフォンほしさに徹夜で並んだ○バカさんの集団をテレビで見ましたが
話題つくりなら他でできるはずではないかと思います。
自殺も出来ない弱い奴が増えているのでしょうか。
祇園祭の山車には琴の演奏家が死んだ友人の信義に報いる為に自分の琴を割ってしまう故事を表現したものもあります。
マテオと言い、信義の為に自分より大事なものを消滅させてしまう義侠心は、少しだけ違っている様に見えますが心臓にぐさりと来る納得感があります。
親達が子供を手塩にかけて育てたという自負や充足感が無いのかも。
問題は殆ど親達にあるのでしょう。
京都の雷ではご心配をかけた様で申し訳ありません。
凄まじかったですよ。
人の摩擦が少なくなった今、
人の言葉に、耳を傾けるということが
ずいぶん減ったように思います。
何か言うと「余計なお世話」
「そんなのかんけーねー」…。
人は一人では生きられないのにね。
うんちく様
本は揃ったのも残ったのも両親のおかげです。
傷んだものもありますが、
全巻とっておいてくれました。
これは講談社のもので、監修に志賀直哉とか
小川未明などという名前があります。
一冊380円、当時は高かったんでしょうね。
本は親が与えないと、
なかなか入り込みませんからねぇ。
本まみれで暮らしていた私には、
今の子がこの幸せを知らないなんて
もったいないと思います。
陽花様
ほんとに「なんでも」ありますからねぇ。
しかもスイッチポンで何でもできる…。
できない、とか、ない、とかってことに
耐えられないのは、結局本人も不幸ですねぇ。
穴熊の女房様
確かに、戦後の焼け野原状態から、
それいけやれいけと、国を立て直す努力を
おしまなかったことは、すごいと思うのですが
豊かに暮らす、安泰に暮らすために、
大事なことを、ぽろぽろとこぼしてきた
そんな気がします。
モノがあふれた今ですが、
今度はそれさえも危ういですね。
次はナニをなくすのでしょう。
えみこ様
ただ「ウンがわるかった」じゃ、
済ませれませんね。
なんかこのごろ、深夜に子供をつれまわしたり
大人が自分の感覚や都合で、やっていても
「子供のため」みたいなこと言う。
どっか「愛し方」をまちがってんじゃないかと
そんな気がします。
はりぽたもあいなんとやらも、
並んでまで買う意味が、よくわかりません。
しばらくすりゃ、どこでもかえるでしょ。
価値観がどこか違うんですね。
otyukun様
ご無事でなによりでした。
「走れメロス」のような友情とか信頼とか、
マテオのような親心とか、「ばっかみたい」とただもう、そういわれてしまうんでしょうか。
こそだてさえも、どこかさめていると、
そんな気がしてなりません。
とんぼさんのご意見はとてもよく分かりますし、確かにどれも、早くに手を打てば止める事ができた事件だった気がします。
心療内科やスクールカウンセリングに携わっている明橋大二先生の著書をいくつか読んだ事があるのですが、私が今まで読んだ育児書の中で、どれも分かりやすく、そして考えさせられる内容でした。
要約すると、最終的に犯罪者になるか自殺をしてしまうような心の障害を抱えている子供たちは、自分を大切にされた記憶がない、つまり自己評価の極端に低い子供たちだ、と書かれています。
そしてそれは、決して子供を見返らない親元での環境だけでなく、むしろ反対に過干渉で叱り過ぎる親元での環境下でそういう心が育ってしまう場合も多い、とも書かれています。
もちろん、執拗ないじめを受けていた場合なども。
水谷修先生(子供たちのリストカットや薬物問題と向き合っていらっしゃる通称夜回り先生)の著書にも、子供たちの心の叫びがたくさん書かれていますし、それは決して特別ではなく、私たちが知らないだけで、本当はとても身近にある世界です。
彼らにまっすぐな愛情さえ注がれていえば、最近の問題の根っこはこんなに深くならずに済んだはず。
でも正直、今の時代、その『まっすぐな愛情』っていう判断基準がすごく難しくなってきていると思うんですよ。
少なくともこういう事件のたび、マスコミが、やれ残虐なゲームのせいだとか甘やかしたあげくのワガママだとか、その場の思いつきでコメントするのはいかがなものかと思います。
例えば、自殺や犯罪ギリギリのラインで苦しんでいる子供がいても、救いの手は差し述べないくせにいざ事件ともなると「今の子供は」「今の親は」と罵倒する。
正直、こういう事件が止められないのは、今の日本、無責任で無関心な大人たちが多くなったのも事実だと思います。
今更のコメントで、しかも生意気にも長々と失礼致しました。。。
ついつい、思い倦ねて書いているうち時間が経ってしまい、気が付いたら今日の雨の記事が上がっていました。。。
気になったので、またコメントしてしまいました。
もし上の文章が、罪を犯した人たちをかばっているように聞こえたら、それはすみません、私の文章力のなさのせいです、ごめんなさい。
そんなつもりは毛頭ないです、罪は認めて苦しんで償なわければなりません。
ただ、こういう問題はどこかに根っこがあって、根っこを断ち切らないとまた生えてくるかも知れないんだよ、という事が言いたかったのですが。。。
うまく伝わっていなくて、お気に触ってしまったら削除して下さい、すみません。
削除の必要は無いと思いますので、
このままにしておきますね。
おっしゃることはよくわかります。私の書き方が足りないのだと思います。
私は、今の「子供をきちんと見られない親」とか「子供と向き合えない親」だけが悪い、と言っているわけではないんです。それがまず原点だあろう、という意味なんです。つい自分が子供だった時代を思い出すわけなんですが、親が子供とちゃんと向き合っていた時代は、親子関係だけでなく、当然親と近所も、親と学校ももっと摩擦のあるつきあいだったわけです。親がちゃんと叱ったり話しを聞いたりする時代は、近所みんながよその子も自分の子と同じように、わるいことをすれば叱ってくれました。つまり、「大人がみんな親の立場を持っていて、親同士も『あんたそんなに甘やかしちゃだめよ』なんてことが言える」時代だったのです。個人主義がひろがって、老親と同居しない(たまにしか会わない孫はかわいいだけです。一緒に暮らしていたら、ジジババだって、ちゃんと叱りますよ)隣近所と付き合いもしない、挨拶もしない、マンションだと、隣で人が死んでいてもわからない、そういう「ご近所づきあい」になってしまったことは、つまりは武者子さんのおっしゃる「無責任な大人」が増えたことで、「子供と一生懸命向き合おうとする人間」も、いなくなってしまったということなのです。でも、こうなってしまった今、よくいいますよね「注意したら何かされそうでこわい」…私だって、叱ってやりたいと思いますが、何かされたら私が困ります。だからこそ、今の時代、まずは一番身近な「親」の責任は重いよってことなんです。親が世間というものとの関わりを密にすれば「モンスターペアレンツ」なんてぇバカげたものを出現させないはずなんです。こんな世の中にしたのは、私たちと私たちの親の世代でしょう。だからと言って、いまさらごめんねぇだけでは何の解決にもなりません。だからこそ、今「若い子の親」である人に、こんなにならないように、もっと子供を見てください、そのためには自分が変わってください、という意味での記事なのです。
一度形になってしまったものを崩して変えていくのは、タイヘンなことです。私の世代のような後悔と、武者子さん世代の「現場の人」の意見と、そういうものを声にしてあげていくことが「今できること」の底辺の位置にあるものだと思うのです。
私のこの記事は、そういう意味の記事なのです。たぶん、私と同世代か上の人たちも、口には出しませんが、できることなら「おい、こらっ」って、隣の子を叱れる時代がいいと思っていると思います。ほんとに中・高生はこわいけど、私、小学生には「雷」落としてますよ。
今、自分にできること、を一人ひとりの大人が考えなければいけないと思います。