![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5a/e8/c098c5c7ccdd5bc59be75ca6f1baec0e.jpg)
トップは、本の最後のほうのページの「おび塚と帯まつり」という記事と写真、
この本の編集者 吉川観方氏が発起人、発行者の「じゅらく」社長(当時)の
伊豆蔵福治郎氏が実行委員長、という形で作られた「おび塚」と、
それを記念して始まった「帯まつり」のお話です。
このおび塚は、昭和44年に洛北の「常照寺」に建てられたそうで、
「帯まつり」は、今でも毎年5月に開催されているそうです。
当日は100名からの女性が、時代風俗をおのおの身にまとい、
行列するそうで、時代まつりよりはこじんまりですが、
時代衣装に興味のある私は、ぜひ見てみたいと思うおまつりですね。
この本には、まぁ時代でしょうが、カラー写真があまりありません。
せっかくですから、きれいなカラーのページを出しましょう。
こちらはこの本の一番最初のページです。
反対のページには「詩」が書かれています。この「詩」の中に
「太古よりこのかた、『相聞』の詩は『捧げる』ことから始まった」とあります。
題は「早蕨よ!いざ!」…要するに、若いオノコが
「早春の蕨」を採って、若菜摘みの娘にささげる、という場面ですな。
服飾で言うと古墳時代、女性の髪形は、後年の形で言うなら、
「島田まげ」の原点ともいうべき髪型で、単純な束髪のように髪を膨らませ、
後ろでまとめてまて髷にしたもの。飾りは自然の植物、
日陰かずらが使われたとモノの本にありました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/0c/8ceb51d91f7ffc0c0c485d78a33b7f7e.jpg)
着物というより大陸風ののドレスっぽいですね。
ストールのようなものは「領布(ひれ)」、とよばれるもの。
破邪の道具としてもつかわれたそうです。
オノコの服は「胡服」をもとにしたものでしょう。
髪は耳の両脇で束ねる「美豆髪(みずら)」です。
こういう姿とか、外国であれ日本であれ「素朴な民族衣装」というものを見ると、
その時代、その場にあり、目に入るあらゆるものの中から
「美しいもの」をみつけたり「美しく加工」したり…、人は、
特に女は、美の追求には決してあきらめたりひるんだりしなかった、
という思いを強くします。
人間以外の動物は、生まれながらにしてもつ「飾り物」、
たとえばたてがみとか、美しい羽とか、大きく膨らむ体の部分とか、
それを駆使するだけですが、人間は、何ももたないからこそ、
あとから身につけるもの、書き込むもの(化粧・刺青など)によって、
美しくなることに精を出したのでしょう。
まして動物の場合は敵に対する威嚇や、伴侶を得るための「装飾」です。
人間だけが、そういう目的以外に「祈り」や「男女の別」「身分の証」として、
さまざまな美しいものを生み出してきたわけです。人間って情熱的ですね。
さて、次の写真はこちら。
十二単に使われる「裳」です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/86/c2df06e057e60130221e1a17b92b9b11.jpg)
お雛様をお持ちの方、来年女雛をご覧になってください。つけてらっしゃるはず。
「裳」というのは「女袴」の成れの果て、あっ違う、変化したもの、です。
高松塚古墳で発見された壁画の中に、大陸風の女性の絵がありましたね。
太古の昔、大陸からの文化を受け続けた日本は、
当初はそのまねっこをしていました。
今の時代でも、たとえば韓国の「チマ・チョゴリ」などは、
女性は短いチョッキにスカート、という形ですが、
だいたい上下に分かれていて、下はスカート風が多かったようです。
日本人は、その後長い時間をかけて日本独自のスタイルを作り、確立し、
そして変化させてきたわけです。
「裳」は本来「腰に巻きつけるもの」、であったわけですが、
十二単のころには、女性も袴をはきました。
その上からあの重量ある唐衣を着て、この「裳」を腰の後ろにつけたわけです。
とりあえずこの裳の部分名称?として、まず裳の上の幅広い部分、
ここを腰にあてがうわけですが、そこが「大腰」、
その両端についているのが「小腰」、これを前に回して縛るわけです。
そして写真では赤いもの、これが「引腰」です。
実はこの「裳」ってのもいろいろ形が変わったようです。
そのあたりのことは、私には複雑すぎてよーわかりませんが、
何でもゆったりとしていた時代から、騒がしい時代へと移行する間に、
「簡略化」ということが行われ、腰で結んでいたものを肩にかけまわす、
これ「掛帯」といいますが、そんな風に変わったり、
紐が長くなるやら短くなるやら…。
私たちは「十二単」というと「平安時代の衣装」と、即結び付けますが、
実はあれこれかわっているところがあるんですね。
いずれにしても、「腰に巻くべき布」は「後ろ向きエプロン」みたいな形で、
今に至るも残っているわけです。
この「腰に巻くもの」は、庶民の間でも残りました。
以前にも書きましたが、去年の大河ドラマでしたっけ、
仲間さんのやった「山之内一豊の妻」のお話、あのころの女性は、
着物に細帯、そしてなんだか前掛けのよーな腰布を巻いています。
あれが「裳」の成れの果て…だから違う、変化したもの。
あのころの身分の高い女性は、すでに十二単を脱いで、小袖に打掛でしたが、
服飾文化の中での、ひとつの大きなポイントとして「女性が袴を脱いだ」
ということがあります。女性もずっと袴をはいていたものが、それを脱ぎ捨て、
小袖だけになったわけですね。打掛というのは、
つまりは十二単の「上に着ている重ねた唐衣」のかわり、
ですから、下に着る小袖は別にハデでなくてもよかったわけで、
打掛こそ、華やかにハデに作りました。
時代劇の大奥の様子などでも、女性の着物は色無地のようなもので、
打掛が豪華ですね。
身分の高い人達はそういう形でしたが、庶民のほうは「裳」の名残も取っ払い、
小袖こそ「美しく」と、さまざまな色柄をつくりだしたわけですね。
着物の話をすると長くなりますねぇ。
結局今日は「裳」からやっと小袖へきたところで終わりですがな。
まだきれいな着物の写真がありますから、つづけましょうかね。
一枚だけ、きれいな着物を…。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/d8/cf1106add21a2662f04b2dca421fd71f.jpg)
この本の編集者 吉川観方氏が発起人、発行者の「じゅらく」社長(当時)の
伊豆蔵福治郎氏が実行委員長、という形で作られた「おび塚」と、
それを記念して始まった「帯まつり」のお話です。
このおび塚は、昭和44年に洛北の「常照寺」に建てられたそうで、
「帯まつり」は、今でも毎年5月に開催されているそうです。
当日は100名からの女性が、時代風俗をおのおの身にまとい、
行列するそうで、時代まつりよりはこじんまりですが、
時代衣装に興味のある私は、ぜひ見てみたいと思うおまつりですね。
この本には、まぁ時代でしょうが、カラー写真があまりありません。
せっかくですから、きれいなカラーのページを出しましょう。
こちらはこの本の一番最初のページです。
反対のページには「詩」が書かれています。この「詩」の中に
「太古よりこのかた、『相聞』の詩は『捧げる』ことから始まった」とあります。
題は「早蕨よ!いざ!」…要するに、若いオノコが
「早春の蕨」を採って、若菜摘みの娘にささげる、という場面ですな。
服飾で言うと古墳時代、女性の髪形は、後年の形で言うなら、
「島田まげ」の原点ともいうべき髪型で、単純な束髪のように髪を膨らませ、
後ろでまとめてまて髷にしたもの。飾りは自然の植物、
日陰かずらが使われたとモノの本にありました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/0c/8ceb51d91f7ffc0c0c485d78a33b7f7e.jpg)
着物というより大陸風ののドレスっぽいですね。
ストールのようなものは「領布(ひれ)」、とよばれるもの。
破邪の道具としてもつかわれたそうです。
オノコの服は「胡服」をもとにしたものでしょう。
髪は耳の両脇で束ねる「美豆髪(みずら)」です。
こういう姿とか、外国であれ日本であれ「素朴な民族衣装」というものを見ると、
その時代、その場にあり、目に入るあらゆるものの中から
「美しいもの」をみつけたり「美しく加工」したり…、人は、
特に女は、美の追求には決してあきらめたりひるんだりしなかった、
という思いを強くします。
人間以外の動物は、生まれながらにしてもつ「飾り物」、
たとえばたてがみとか、美しい羽とか、大きく膨らむ体の部分とか、
それを駆使するだけですが、人間は、何ももたないからこそ、
あとから身につけるもの、書き込むもの(化粧・刺青など)によって、
美しくなることに精を出したのでしょう。
まして動物の場合は敵に対する威嚇や、伴侶を得るための「装飾」です。
人間だけが、そういう目的以外に「祈り」や「男女の別」「身分の証」として、
さまざまな美しいものを生み出してきたわけです。人間って情熱的ですね。
さて、次の写真はこちら。
十二単に使われる「裳」です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/86/c2df06e057e60130221e1a17b92b9b11.jpg)
お雛様をお持ちの方、来年女雛をご覧になってください。つけてらっしゃるはず。
「裳」というのは「女袴」の成れの果て、あっ違う、変化したもの、です。
高松塚古墳で発見された壁画の中に、大陸風の女性の絵がありましたね。
太古の昔、大陸からの文化を受け続けた日本は、
当初はそのまねっこをしていました。
今の時代でも、たとえば韓国の「チマ・チョゴリ」などは、
女性は短いチョッキにスカート、という形ですが、
だいたい上下に分かれていて、下はスカート風が多かったようです。
日本人は、その後長い時間をかけて日本独自のスタイルを作り、確立し、
そして変化させてきたわけです。
「裳」は本来「腰に巻きつけるもの」、であったわけですが、
十二単のころには、女性も袴をはきました。
その上からあの重量ある唐衣を着て、この「裳」を腰の後ろにつけたわけです。
とりあえずこの裳の部分名称?として、まず裳の上の幅広い部分、
ここを腰にあてがうわけですが、そこが「大腰」、
その両端についているのが「小腰」、これを前に回して縛るわけです。
そして写真では赤いもの、これが「引腰」です。
実はこの「裳」ってのもいろいろ形が変わったようです。
そのあたりのことは、私には複雑すぎてよーわかりませんが、
何でもゆったりとしていた時代から、騒がしい時代へと移行する間に、
「簡略化」ということが行われ、腰で結んでいたものを肩にかけまわす、
これ「掛帯」といいますが、そんな風に変わったり、
紐が長くなるやら短くなるやら…。
私たちは「十二単」というと「平安時代の衣装」と、即結び付けますが、
実はあれこれかわっているところがあるんですね。
いずれにしても、「腰に巻くべき布」は「後ろ向きエプロン」みたいな形で、
今に至るも残っているわけです。
この「腰に巻くもの」は、庶民の間でも残りました。
以前にも書きましたが、去年の大河ドラマでしたっけ、
仲間さんのやった「山之内一豊の妻」のお話、あのころの女性は、
着物に細帯、そしてなんだか前掛けのよーな腰布を巻いています。
あれが「裳」の成れの果て…だから違う、変化したもの。
あのころの身分の高い女性は、すでに十二単を脱いで、小袖に打掛でしたが、
服飾文化の中での、ひとつの大きなポイントとして「女性が袴を脱いだ」
ということがあります。女性もずっと袴をはいていたものが、それを脱ぎ捨て、
小袖だけになったわけですね。打掛というのは、
つまりは十二単の「上に着ている重ねた唐衣」のかわり、
ですから、下に着る小袖は別にハデでなくてもよかったわけで、
打掛こそ、華やかにハデに作りました。
時代劇の大奥の様子などでも、女性の着物は色無地のようなもので、
打掛が豪華ですね。
身分の高い人達はそういう形でしたが、庶民のほうは「裳」の名残も取っ払い、
小袖こそ「美しく」と、さまざまな色柄をつくりだしたわけですね。
着物の話をすると長くなりますねぇ。
結局今日は「裳」からやっと小袖へきたところで終わりですがな。
まだきれいな着物の写真がありますから、つづけましょうかね。
一枚だけ、きれいな着物を…。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/d8/cf1106add21a2662f04b2dca421fd71f.jpg)
おぉ、買われましたか。
仮名遣いも古くて読みにくいんですが、
なんといいますか、この本に携わった人の
心意気といいますか、矜持の高さを感じます。
実際にきたところの写真というのは、
ほんとになかなかありませんね。
がんばって製作してください。
本の中では白黒写真ですが、「大宮人の風雅」に心惹かれました。男女ペアのドール衣装は作って合成写真にしたんですが、こういう群像もいいですね。楽器が作れればイケルかも?
貴重な本のご紹介ありがとうございました。これから、ゆっくり読みます。
私もいってみたいと思っています。
写真撮りまくりですね、きっと。
刺繍も染もすべて「手作業」、
すごいですよねぇ。
えみこ様
全てにおいて、ゆったりしていたのだと
思います。流行がワンシーズンとか、
そういう時代には、感性を磨くのも、
いそがしいことでしょうねえ。
昔のひとの方が美意識も感性も高かったんですね。
みたいものです。
昔の織や刺繍は本当に凝っていて
素適ですね~