またまた写真がないので「男の子の一つ身」、絽です。
勇壮な「龍の柄」、大人物の繰り回しかという気もしますが、
背中の青い糸の背守り、親の思いが感じられますね。
向かって右にかかっているのは「ひも部分」ですが、シミがあるんですー。
日本人の暮らしは、どんどん欧米化してきています。
家の作りも暮らし方も、食事も衣服も…。
つまり衣・食・住、どれをとっても、です。
でも、おもしろいことに、これだけモダンな建築が進み、
居間をリビング、板の間をフローリング、台所をキッチン…とよぶようになっても
玄関を外界との区切りとして、家の中では靴を脱ぐことはやめませんねぇ。
私は、ホテルに泊まるとき、部屋に入って靴からスリッパにはきかえるとき、
いつも違和感を感じます。
部屋の内と外では「高さ」という結界がある…というDNAでしょうか。
あっ余談ですが、台所の語源は、かつて「箱膳」や「木具膳」など、
個別に台をつかって食事をしていたとき、その台(膳)を
まとめてしまうところだったから。
雅なおかたの使う「蝶足膳」は、やっぱり蒔絵の戸棚だったのでしょうか…。
まぁ生まれたときから完全洋風で、家の中に靴で入るという暮らしをしていたら
それで慣れていくのでしょうけれど、どんな新築のモダンな家でもマンションでも
いまだに「玄関では履物を脱ぐ」…「沓脱」なんて言葉はまだありますね、
これでまだしばらくは、この「和」はなくならないのでしょう。
玄関の靴脱ぎと一緒にするのははばかられますが、
やはり、何かのときは、ちゃんと着物、という意識も、
ぜひぜひなくなってほしくないものと思います。
また繰り返しになりますが、先日のミスユニバースの一件で、
多くの人が「着物は日本の大切な民族衣装」とか「守るべき伝統」とか
「日本女性の第一正装は振袖」などという記述がたくさんあったのを
本当にうれしく思いました。まだまだ大丈夫…と思えます。
さて、ではこの「いざというときの着物」、ですが、
先日来でております、何を着るのが礼儀にかなっているのか…ですが…。
地方地域で衣装が違ったり…教えるほうの年代や地域によってちがったり
そういうこともあるので具体的に、何の着物に何の帯…というようなことではなく、
もう少し「気持ち」という点で考えてみたいと思います。
先日も「日本人は『礼』を大切にする民族」と書きました。
今の時代は、人とのつながりが希薄です。
家族でさえも、わからなくなってきている部分があるように思います。
現実にハナシをする友達は嫌われないように気を遣うから、
ケータイやネットの「顔の見えない・直接あうことのない」相手の方がラク、
などと悲しい言葉も聴かれます。
なんだか不安ですねぇ。それでも人は生きて大人になり、
そして冠婚葬祭は避けて通れないこと。つながりが深かろうと浅かろうと、
そのときおざなりであってはいけないことに、かわりはありません。
「心」とか「思い」というものですね。
礼を尽くす、ということはどういうことなのか。
単純に「規則」として「披露宴に呼ばれたから振袖、訪問着」、
「近所の知り合いだからブラックフォーマル」と…まぁもちろんそれは
「しきたり」として知っておくべき常識ですから、それでいいのですが、
じゃなんでそれを着るのかってことです。
これも書きましたが、結婚式や披露宴では、花嫁以外は白を着ません。
これは、花嫁に敬意を表してのことです。
それ以外のパーティーなら白でも黒でも赤でも、なんでもアリです。
また着物の場合、近しい親族とお仲人さんは留袖、それ以外は訪問着や振袖です。
これは「格をあわせて、立場を越さない」なんですね。
「格」をあわせるということは、あちらがきちんと留袖や紋付で臨んでいるのに
こちらが小紋やウールでは失礼にあたる…ということ。
そして「立場を越さない」というのは、たとえば自分は身内であっても
親とか姉とか、そういう近しい身内ではないのだから、とか
自分は友人という立場なのだから、という場合に、
「一番近しい身内と同じにしてしまったら失礼」ということなのです。
「白」は着ないというのと同じです。
例えば、同じ振袖でも本振袖だと「五つ紋」をつけるものがあります。
昔はみんなついていたのですが、最近はつけなくなりました。
披露宴で新婦の妹が振袖だったとき、それに五つ紋がついてなかったら、
こちらのほうが格が上になってしまいます。
そういうことなんですね。もちろんこういうことって、
こまごま言っていたら、たとえばあっちが中振袖、こっちが本振袖…と、
そんなところからになってしまいます。
ですから、まぁ「こまっけぇことは、ちとコッチへおいといて」であっても、
いい部分もあると思います。例えば真夏の披露宴に、袷と絽が同居しても、
かたや「暑いものねぇ」かたや「あらまぁわざわざきちんと着てくれたのねぇ」です。
大切なのは「相手に対するお祝いの気持ちをカタチに表す」部分で
失礼のないように、だから「格をあわせて、立場を越さない」なんですね。
これからいけば、喪についても「格をあわせて、立場を越さない」と考えれば、
「着物の黒喪服」は身内の着るものだから、格をあわせて立場を越えない、
にあてはめて、会葬者は「色喪服」が妥当だ、ということになります。
ただ、今の時代、なにしろ洋装の真っ黒け集団ですからねぇ…。
私は単純に昨日も書いたように「洋装」は、それだけで、
和装よりは下の感覚なのです。それは規則上の「格」というより、
もっと感覚的なもので、例えば家族の結婚式に新郎か新婦の妹が
カラーフォーマルのドレスだったら、もちろん洋装のランクとして
失礼にはあたらないとは思いますが、やっぱり振袖でしょ、と思っちゃいます。
だから告別式にブラックフォーマルだと、それは感覚的に、ですよ、
あくまで感覚的に、ですが、色喪服と同列、という気ががするんです。
しつこいようですが「個人の感覚」です。
「身内は着物の黒喪服」というのは、やはり日本人としてこの国に暮らし、
日本人の習慣で故人を送るには、日本の衣服の礼を尽くす…、
これはいつまでも替えてはならないと思いますし、
親から子に、たとえ貸衣装であっても、家族として故人に感謝と礼を尽くして
「和服」であるべきだと、教えていってほしいと思います。
最近は「教会でウェディングドレスで」という結婚式も増えています。
確かにあれもきれいでモダンでステキなものではありますが、
「花嫁衣裳」を「ファッション」で考えている感じがします。
そういうウェディングをなさったかた、ごめんなさい、
クリスチャンの方もいらっしゃるでしょうし…。
でも、お色直しができるなら、その時は着物を着てほしいですね。
日本人は「生まれたら神社でお宮参りをし、お正月に初詣をして、
教会で結婚式をあげ、お寺で葬式をする」…なんてことを言います。
実に柔軟な国民ではあります。そこがまたいいところなのであって、
節分の「恵方巻き一本食い」も「バレンタイン」も「ひなまつり」も
「クリスマス」も「おせち」も、なんでもみんなで楽しんでしまう、
というのは、悪いことではないと思いますが、
冠婚葬祭については、しっかりとその国に根付いたもの、というのを感じて
決めて、そしてそれを守っていってほしいものだと思います。
世界の国々を見ても、結婚式やお葬式は、
伝統を大切にしてやっているところが大半だと思います。
元々着物という文化で暮らしてきたところへはいってきた、
洋服という異文化を、その柔軟性で飲み込んできた日本人は、
たしかに柔軟であるとは思いますが、それはあくまで「共存」であって、
「駆逐」されてはならないと思います。
決して洋服を憎んだりうらんだりしているわけではありません。
私も洋服ナシでは暮らせない状況です。
どちらのどこがいいか、何を大切にするべきか、
お互いのいいところを認め、お互いのいいところを大切にしていく、
それが「みょうちきりんな着物もどき」を残さない、
洋装にとっても和装にとっても、大切なことだと思います。
本日のおまけ話…
台所のことを書いたので、ついでのことに「お勝手」とか「勝手口」のことも。
これは弓道の右手のことからきている、といわれています。
弓道では、左手は弓を支えて動かしませんが、右手は弦をひくのに自由に動きます。
「玄関と違って、誰かの許しがなくても誰でも自由にではいりできる」
というイミで、そういわれるようになったそうです。
もうひとつ弓にまつわるおまけ話し、
昔中国の「匈奴」と呼ばれる騎馬民族が馬を駆って村や町を次々襲い、
弓矢を武器として滅ぼすことで、たいへん恐れられました。
匈奴は弓をひきやすくするために、着物の打ち合わせを左前、
つまり右側の身頃が胸を大きく覆うように(今の着物と反対)着ていたそうです。
そこで、時の皇帝が匈奴と同じ向きに着物を着ることを禁じした。
コレが、今の着物が右前になった由来だそうです。
勇壮な「龍の柄」、大人物の繰り回しかという気もしますが、
背中の青い糸の背守り、親の思いが感じられますね。
向かって右にかかっているのは「ひも部分」ですが、シミがあるんですー。
日本人の暮らしは、どんどん欧米化してきています。
家の作りも暮らし方も、食事も衣服も…。
つまり衣・食・住、どれをとっても、です。
でも、おもしろいことに、これだけモダンな建築が進み、
居間をリビング、板の間をフローリング、台所をキッチン…とよぶようになっても
玄関を外界との区切りとして、家の中では靴を脱ぐことはやめませんねぇ。
私は、ホテルに泊まるとき、部屋に入って靴からスリッパにはきかえるとき、
いつも違和感を感じます。
部屋の内と外では「高さ」という結界がある…というDNAでしょうか。
あっ余談ですが、台所の語源は、かつて「箱膳」や「木具膳」など、
個別に台をつかって食事をしていたとき、その台(膳)を
まとめてしまうところだったから。
雅なおかたの使う「蝶足膳」は、やっぱり蒔絵の戸棚だったのでしょうか…。
まぁ生まれたときから完全洋風で、家の中に靴で入るという暮らしをしていたら
それで慣れていくのでしょうけれど、どんな新築のモダンな家でもマンションでも
いまだに「玄関では履物を脱ぐ」…「沓脱」なんて言葉はまだありますね、
これでまだしばらくは、この「和」はなくならないのでしょう。
玄関の靴脱ぎと一緒にするのははばかられますが、
やはり、何かのときは、ちゃんと着物、という意識も、
ぜひぜひなくなってほしくないものと思います。
また繰り返しになりますが、先日のミスユニバースの一件で、
多くの人が「着物は日本の大切な民族衣装」とか「守るべき伝統」とか
「日本女性の第一正装は振袖」などという記述がたくさんあったのを
本当にうれしく思いました。まだまだ大丈夫…と思えます。
さて、ではこの「いざというときの着物」、ですが、
先日来でております、何を着るのが礼儀にかなっているのか…ですが…。
地方地域で衣装が違ったり…教えるほうの年代や地域によってちがったり
そういうこともあるので具体的に、何の着物に何の帯…というようなことではなく、
もう少し「気持ち」という点で考えてみたいと思います。
先日も「日本人は『礼』を大切にする民族」と書きました。
今の時代は、人とのつながりが希薄です。
家族でさえも、わからなくなってきている部分があるように思います。
現実にハナシをする友達は嫌われないように気を遣うから、
ケータイやネットの「顔の見えない・直接あうことのない」相手の方がラク、
などと悲しい言葉も聴かれます。
なんだか不安ですねぇ。それでも人は生きて大人になり、
そして冠婚葬祭は避けて通れないこと。つながりが深かろうと浅かろうと、
そのときおざなりであってはいけないことに、かわりはありません。
「心」とか「思い」というものですね。
礼を尽くす、ということはどういうことなのか。
単純に「規則」として「披露宴に呼ばれたから振袖、訪問着」、
「近所の知り合いだからブラックフォーマル」と…まぁもちろんそれは
「しきたり」として知っておくべき常識ですから、それでいいのですが、
じゃなんでそれを着るのかってことです。
これも書きましたが、結婚式や披露宴では、花嫁以外は白を着ません。
これは、花嫁に敬意を表してのことです。
それ以外のパーティーなら白でも黒でも赤でも、なんでもアリです。
また着物の場合、近しい親族とお仲人さんは留袖、それ以外は訪問着や振袖です。
これは「格をあわせて、立場を越さない」なんですね。
「格」をあわせるということは、あちらがきちんと留袖や紋付で臨んでいるのに
こちらが小紋やウールでは失礼にあたる…ということ。
そして「立場を越さない」というのは、たとえば自分は身内であっても
親とか姉とか、そういう近しい身内ではないのだから、とか
自分は友人という立場なのだから、という場合に、
「一番近しい身内と同じにしてしまったら失礼」ということなのです。
「白」は着ないというのと同じです。
例えば、同じ振袖でも本振袖だと「五つ紋」をつけるものがあります。
昔はみんなついていたのですが、最近はつけなくなりました。
披露宴で新婦の妹が振袖だったとき、それに五つ紋がついてなかったら、
こちらのほうが格が上になってしまいます。
そういうことなんですね。もちろんこういうことって、
こまごま言っていたら、たとえばあっちが中振袖、こっちが本振袖…と、
そんなところからになってしまいます。
ですから、まぁ「こまっけぇことは、ちとコッチへおいといて」であっても、
いい部分もあると思います。例えば真夏の披露宴に、袷と絽が同居しても、
かたや「暑いものねぇ」かたや「あらまぁわざわざきちんと着てくれたのねぇ」です。
大切なのは「相手に対するお祝いの気持ちをカタチに表す」部分で
失礼のないように、だから「格をあわせて、立場を越さない」なんですね。
これからいけば、喪についても「格をあわせて、立場を越さない」と考えれば、
「着物の黒喪服」は身内の着るものだから、格をあわせて立場を越えない、
にあてはめて、会葬者は「色喪服」が妥当だ、ということになります。
ただ、今の時代、なにしろ洋装の真っ黒け集団ですからねぇ…。
私は単純に昨日も書いたように「洋装」は、それだけで、
和装よりは下の感覚なのです。それは規則上の「格」というより、
もっと感覚的なもので、例えば家族の結婚式に新郎か新婦の妹が
カラーフォーマルのドレスだったら、もちろん洋装のランクとして
失礼にはあたらないとは思いますが、やっぱり振袖でしょ、と思っちゃいます。
だから告別式にブラックフォーマルだと、それは感覚的に、ですよ、
あくまで感覚的に、ですが、色喪服と同列、という気ががするんです。
しつこいようですが「個人の感覚」です。
「身内は着物の黒喪服」というのは、やはり日本人としてこの国に暮らし、
日本人の習慣で故人を送るには、日本の衣服の礼を尽くす…、
これはいつまでも替えてはならないと思いますし、
親から子に、たとえ貸衣装であっても、家族として故人に感謝と礼を尽くして
「和服」であるべきだと、教えていってほしいと思います。
最近は「教会でウェディングドレスで」という結婚式も増えています。
確かにあれもきれいでモダンでステキなものではありますが、
「花嫁衣裳」を「ファッション」で考えている感じがします。
そういうウェディングをなさったかた、ごめんなさい、
クリスチャンの方もいらっしゃるでしょうし…。
でも、お色直しができるなら、その時は着物を着てほしいですね。
日本人は「生まれたら神社でお宮参りをし、お正月に初詣をして、
教会で結婚式をあげ、お寺で葬式をする」…なんてことを言います。
実に柔軟な国民ではあります。そこがまたいいところなのであって、
節分の「恵方巻き一本食い」も「バレンタイン」も「ひなまつり」も
「クリスマス」も「おせち」も、なんでもみんなで楽しんでしまう、
というのは、悪いことではないと思いますが、
冠婚葬祭については、しっかりとその国に根付いたもの、というのを感じて
決めて、そしてそれを守っていってほしいものだと思います。
世界の国々を見ても、結婚式やお葬式は、
伝統を大切にしてやっているところが大半だと思います。
元々着物という文化で暮らしてきたところへはいってきた、
洋服という異文化を、その柔軟性で飲み込んできた日本人は、
たしかに柔軟であるとは思いますが、それはあくまで「共存」であって、
「駆逐」されてはならないと思います。
決して洋服を憎んだりうらんだりしているわけではありません。
私も洋服ナシでは暮らせない状況です。
どちらのどこがいいか、何を大切にするべきか、
お互いのいいところを認め、お互いのいいところを大切にしていく、
それが「みょうちきりんな着物もどき」を残さない、
洋装にとっても和装にとっても、大切なことだと思います。
本日のおまけ話…
台所のことを書いたので、ついでのことに「お勝手」とか「勝手口」のことも。
これは弓道の右手のことからきている、といわれています。
弓道では、左手は弓を支えて動かしませんが、右手は弦をひくのに自由に動きます。
「玄関と違って、誰かの許しがなくても誰でも自由にではいりできる」
というイミで、そういわれるようになったそうです。
もうひとつ弓にまつわるおまけ話し、
昔中国の「匈奴」と呼ばれる騎馬民族が馬を駆って村や町を次々襲い、
弓矢を武器として滅ぼすことで、たいへん恐れられました。
匈奴は弓をひきやすくするために、着物の打ち合わせを左前、
つまり右側の身頃が胸を大きく覆うように(今の着物と反対)着ていたそうです。
そこで、時の皇帝が匈奴と同じ向きに着物を着ることを禁じした。
コレが、今の着物が右前になった由来だそうです。
ブラックフォーマルで喪主をするというのを
親がこの日の為に喪服を作ってくれているんだから、手伝うから着なさいよと半ば強引に
言って喪服を勧めました。
告別式が終わってから、ご近所の方に着物で
送ってあげた事を何か言われたのか、よく
着物を着る事を勧めてくれてありがとう、
着物にしてよかったわと感謝されました。
着られないと洋服でいいや、となってしまうん
でしょうが、節目には着物をというのが
いつまでも続いてほしいですね。
洋服が主流とはいえ、皆が本式のタキシードやディレクターズスーツを持っているかといえばそうでもなく…
食事の時も、いちばんよく使うのは「お箸」ですしね。
こんなごっちゃな状態もまた面白いとは思いますが、本来のマナーどおりにするとかえって浮く、変に思われる、というのは困りますよね。
日本人の奥ゆかしさが、そこかしこに生きていたんですね
紗の喪服についてレス有難うございました。
少ない理由も判りました。
夏着物もあと1週間ほどでおしまいですね
まだ袖を通していない紗紬をなんとか着てしまいたい所です(笑
今日なんか、秋の空みたい
ひんやりしています。
めったにない行事(続く時は続きますが)なだけにTPOが時代に左右されやすい場合も多そうですね。
十年前の常識すら今では…?なこともありますし、地域柄、お家柄もありますし。
自分の「婚」の話で申し訳ありませんが、お色直しの時の衣装に義母の振袖を勧められました。全体に刺繍の入っている見事なものでしたが諸事情によりキャンセル。
でも自分の振袖を勧めてくれる程だから普通に留袖で出席かと思いきや、地味目のカラーフォーマルで内心ビックリ!
後から聞いた話では、実は着物を着るのは好きではないと…(^_^;;)
はるばる関西から冬の北海道に来てくれたのだからアレコレはもちろん言えませんが。
もし親戚を呼ぶような大掛かりな式だったら、確実にウワサになっていただろうなあ…なんて思い出してしまいました。
そんな感じなので、実母に持たせてもらった喪服一式は当分出番はなさそうです。出番がないのはいい事なんですが、ちゃんと虫干しせねば…(^_^;)
せっかくまだちゃんとある「文化」ですから、
続いていってほしいものですね。
洋装に慣れていると、いいじゃない別に、
なんでしょうけれど。
ほんとにいろいろ中途半端です。
意味までわからなくなっていますから、
あやふやなまま、かわってしまうみたいで。
「お箸の国の人だから」なんて、
CMがありましたね。
そこを忘れてほしくないんですが。
ほんとに「秋」が早いですね。
奥ゆかしい、というのが美徳、なんていうと
古めかしく思われるのかもしれませんが、
言葉では表さない思いってのも、
大切にしたいものだと思います。
私も見ました。さすがだなぁと思いました。
とてもいい色でしたね。
それにしても、寂しい亡くなり方でしたね。
きれいな方だったのに。残念です。
自分の親なら言えるけど…ですね。
それにしてもふしぎ…ですね。
遠いからってことは、理由にはならないと
思うんですが。
友人は岩手の身内の結婚式に、
大雪の中、留袖に長靴で行ったそうです。
北国なら雪アタリマエでしょ、
どうして春にしないの、といったら
よくある「デキチャッタ婚」だったそうで。