写真がないので、かわりばえもなく「あさがお」
お天気のせいか、8時をすぎていたのに「まだこれからよ~ん」と咲き始めです。
昨日の続きですが、なんかバラバラのお話しのまま終わってしまってすみません。
更にバラバラになりそうで怖いのですが…
「その3」「その4」とつづくことになるかなーと。
昨日のコメントでもいただきましたが、本当に今はごちゃごちゃですね。
私は専門家でない上に、暮らしている範囲が狭いですから、
たぶんに偏りもあるかと思うのですが…。
それを踏まえての、私の感覚でお話し致します。
いつものお話ですが、着物というのは明治維新から、
急にいろいろ変わり始めたわけです。それは冠婚葬祭のものに限らず…です。
江戸時代は、身分制度がありました。
着るものについては、その立場や職業によって、素材も、
またモノによっては寸法やカタチまで決められていました。
そんな中では「かわりよう」がありません。
また全体に貧しい暮らしの中では、贅沢をできるのはごくごく一部。
ほとんどの庶民は、少ないものを大切に、繰り回して着ていたわけです。
それが「自由」になったおかけでいろいろなところが進んだわけですが、
それとても、みんな足並みそろえて「せーの」で、
同じように進んだわけではありません。
だからザンギリアタマもいればちょんまげもまだ残っているし、
女性でも、日本髪を結うのはかわらないけど洋服は着てみたい…もいたし、
時代が進むと「着物に靴」「着物に帽子」「日本髪に洋服」なんてのも
いろいろ混在していたわけです。結局「洋髪に着物」ってのが残ったわけですね。
こんなふうに、いろいろなことが混沌として、
しかも昔と違ってだんだんスピードアップしながら進んできたんですね。
いつも私が、戦後着物についてのことが伝わらなかったから…といいますが、
イマイチわかりにくいので、ちょっと表みたいなものを作ってみました。
といっても、これまたわかりにくいのですが…。
母と私の年齢、それと右側は「母より10歳年上・私より10歳年上」の年齢です。
見づらいですが、
「母は大正12年生まれ、私は「とんぼの『と』」で昭和25年です。
これだけじゃタダの年齢表ですが、
年代がわかると、そのころの世間の様子、というのがわかると思うんです。
まず、母は人生の一番華やかでオシャレをしたい時期が「戦争」です。
そのころ母より10歳上の人は、ちょうど結婚して子供がうまれて、
オットを戦争にとられて…の時期です。昭和16~20年ですね。
そしてこのころの成人女性は母も含めて、
着物を自分でも縫ったし着られたんですね。
その後私が生まれたとき、
昭和25年 母は27歳、10歳年上は37歳
私は0歳で、10歳上は10歳
これ、つまり戦後わずか5年目の日本ってことです。
日本中焼け野原から、なんとか復興しようとしている時期。
着物を自由に着られるようになっても、モノはなくお金もない…。
昭和35年、母は37歳、10歳年上は47歳
私は10歳、10歳年上は20歳(成人式)
昭和35年ごろは、家にテレビが入り始めた時期、
まだ世間は中流意識なんてなかった時代です。
このときすでに、女性が日常で着物を着ることが少なくなっていました。
せいぜい入学式とか、お祝い事です。
(私の母はたまたま普段も着物を着るひとだった…のです)
つまり、そのころ私より年上の20歳の人は、もう母親の着物姿を
あまり見て育ってないってことなんですね。
成人式も「呉服屋さんと美容院」のお世話になっていると思います。
当時、母よりもっとずっと上の人、60代70代の人が
かろうじて普段着物を着ていました。
つまり、日常から着物が遠ざかったのはこの時期なんです。
昭和40年代に入ると、着物を教わらなかった世代が結婚・出産の時代です。
当然のように、その子供たちは、着物について「更に」何も知りません。
そして今、母は86歳、私は59歳、
そして着物から離れ始めてしまった年代は今年96歳、
その子供の年代が69歳。
つまり、今現在60歳くらいの人から、親が着物を着ていないわけで、
70くらいのかたでさえ、着物を着られない人がいるわけです。
着られないということは、それだけでなく
「着物についての知識」も伝承されてないってことなんです。
私の同級生くらいの友人だと、一応の一般知識、
結婚式は留袖で、それは比翼仕立て、襦袢は白で、帯は金銀の袋帯で…とか
小紋や紬は街着、そういったこと、基本的なこと程度は知っています。
ぎりぎりですね。
今、着物にかかわる仕事をしている人の年齢を考えてみてください。
呉服屋で、50歳くらいの店員さんが「そりゃちがうだろ」というようなことを
平気で言っていても、実は不思議はないってことです。
たまたま身近にいつも着物があるような暮らしをしていたり、
私のようにたまたま親が着物好きだったりすると、
それなりに、つまり「その家流」であっても、
着物のさまざまななことが伝わります。
でも、何もないところから、たとえば「着付け教室」へいったりすると、
そこでおそわったことが全て、になってしまいます。
もちろん、マチガイではないと思うのですが、
昨日お話したように、さまざまなことがごちゃまぜになっていて、
はっきりしないことがあったり、また年代によっておしえることが違ったり、
そういうことが起きるわけです。
以前、例としてあげました「ウール着物はどこまで着られるか」。
人によって「寝巻きと同じ、家の中だけ」と教わった人もいれば、
「せいぜい近所のコンビにに買い物程度」と教わった人もいれば、
「色柄によってはオシャレ着」と教わった人もいれば…。
これは、それを教えた人の年代にもよるのです。
ただ「だから、きちんとしたところへは着ていかれない」ということは伝わっています。
昨日も書きましたが、戦後のモノのあまり十分でない時代には、ノウハウページに
「お通夜に着るのは地味な小紋や縞柄、それがないときはウールでも可」
とありました。これは、絹物がなかなか買えない、買うとしたらまず礼装、
そんな時代だったから、絹物がハデならジミなウールでも可、となるわけです。
今の時代は、着物を持っているなら、地味な小紋の一枚くらいあるでしょ、
だろうし、ウールは普段着です。実際には、お通夜は普段着でもいいのですから、
お通夜なら今でもいいと思うのですが、
今度はこの豊かな時代には「お通夜にウール?」という感覚があります。
昨日の喪服でも、大体は嫁入りに持たせるのが一番理由付けもいいので、
私も袷の喪服は嫁入りのときに作ってもらいました。
絽とあい(あい喪服=単)については、母は「余裕できたら」と言っていましたが、
後年は「最近は世の中変わったし、絽はいずれ自分のをやるから、
『あい』はもしものときは、貸衣装にしとき」と言ってました。
それでなくてもいろいろなことがどんどん変わった上に戦争があり、
着る人が減って、伝わることが減ったりなくなったり…。
更にそのうえもうひとつ「洋装の台頭」というのがありました。
実際、私が小さいころは、着物を着ないといっても、
まだまだ「何かのときは」着物でした。
お正月に自宅で着るのははもちろんのこと、目上のお宅へのお年始や里帰り、
子供の入学式や卒業式、お祝いやご挨拶でよそさまに正装でいくとき、
「やっぱ着物でしょ」でした。
それが「ブラックフォーマル」というものが現れて、
みんなそっちに移行してしまいました。
子供のことも慶弔のことも。今でこそブラックフォーマルは「喪服」ですが、
私が20代のころは、結婚式に着ていてもちっともおかしくありませんでした。
男性のブラックスーツが、ネクタイを替えることで慶弔両用になるのと同じで、
華やかなコサージュや光るアクセなど、身につけるもの持ち物を替えて、
結婚式にも着ていたのです。
やがて、お祝い事には明るい色が…なんてことでカラー・フォーマルが出てきました。
こうなると、着物の出番は減るばかりです。
そして…お葬式の「礼装」がなにがなにやらわからなくなってきた…
ということなんだと思います。
昨日も書きましたが、「着物」が日本の正装である以上、
私は洋装は同じ「黒」でも、同列にはならない、と思っています。
みなさんだってきっと「暑いし、たいへんだから洋服でいいわよ」とか
「着物が着られないから洋服にするわ」とかじゃありませんか?
それってつまり「本当は着物の喪服なんだけど」ってのが、
言葉に出していわないけれど、意識の中にあるってことです。
基本的に礼装は「気持ちを表す」ですが、単純に黒、ではなくて、
本当はもっとキメの細かい何かが大切なのではないかと、思ったりするわけです。
とりあえず、今日はこの辺にしておきます。
なんかちっとも進んだ気がしないのですが、戦後の日本の状況というもの、
少し具体的におわかりいただけましたかねぇ。
あぁあらためて、年取ったなぁと、そっちを実感しちまいました。
お天気のせいか、8時をすぎていたのに「まだこれからよ~ん」と咲き始めです。
昨日の続きですが、なんかバラバラのお話しのまま終わってしまってすみません。
更にバラバラになりそうで怖いのですが…
「その3」「その4」とつづくことになるかなーと。
昨日のコメントでもいただきましたが、本当に今はごちゃごちゃですね。
私は専門家でない上に、暮らしている範囲が狭いですから、
たぶんに偏りもあるかと思うのですが…。
それを踏まえての、私の感覚でお話し致します。
いつものお話ですが、着物というのは明治維新から、
急にいろいろ変わり始めたわけです。それは冠婚葬祭のものに限らず…です。
江戸時代は、身分制度がありました。
着るものについては、その立場や職業によって、素材も、
またモノによっては寸法やカタチまで決められていました。
そんな中では「かわりよう」がありません。
また全体に貧しい暮らしの中では、贅沢をできるのはごくごく一部。
ほとんどの庶民は、少ないものを大切に、繰り回して着ていたわけです。
それが「自由」になったおかけでいろいろなところが進んだわけですが、
それとても、みんな足並みそろえて「せーの」で、
同じように進んだわけではありません。
だからザンギリアタマもいればちょんまげもまだ残っているし、
女性でも、日本髪を結うのはかわらないけど洋服は着てみたい…もいたし、
時代が進むと「着物に靴」「着物に帽子」「日本髪に洋服」なんてのも
いろいろ混在していたわけです。結局「洋髪に着物」ってのが残ったわけですね。
こんなふうに、いろいろなことが混沌として、
しかも昔と違ってだんだんスピードアップしながら進んできたんですね。
いつも私が、戦後着物についてのことが伝わらなかったから…といいますが、
イマイチわかりにくいので、ちょっと表みたいなものを作ってみました。
といっても、これまたわかりにくいのですが…。
母と私の年齢、それと右側は「母より10歳年上・私より10歳年上」の年齢です。
見づらいですが、
「母は大正12年生まれ、私は「とんぼの『と』」で昭和25年です。
これだけじゃタダの年齢表ですが、
年代がわかると、そのころの世間の様子、というのがわかると思うんです。
まず、母は人生の一番華やかでオシャレをしたい時期が「戦争」です。
そのころ母より10歳上の人は、ちょうど結婚して子供がうまれて、
オットを戦争にとられて…の時期です。昭和16~20年ですね。
そしてこのころの成人女性は母も含めて、
着物を自分でも縫ったし着られたんですね。
その後私が生まれたとき、
昭和25年 母は27歳、10歳年上は37歳
私は0歳で、10歳上は10歳
これ、つまり戦後わずか5年目の日本ってことです。
日本中焼け野原から、なんとか復興しようとしている時期。
着物を自由に着られるようになっても、モノはなくお金もない…。
昭和35年、母は37歳、10歳年上は47歳
私は10歳、10歳年上は20歳(成人式)
昭和35年ごろは、家にテレビが入り始めた時期、
まだ世間は中流意識なんてなかった時代です。
このときすでに、女性が日常で着物を着ることが少なくなっていました。
せいぜい入学式とか、お祝い事です。
(私の母はたまたま普段も着物を着るひとだった…のです)
つまり、そのころ私より年上の20歳の人は、もう母親の着物姿を
あまり見て育ってないってことなんですね。
成人式も「呉服屋さんと美容院」のお世話になっていると思います。
当時、母よりもっとずっと上の人、60代70代の人が
かろうじて普段着物を着ていました。
つまり、日常から着物が遠ざかったのはこの時期なんです。
昭和40年代に入ると、着物を教わらなかった世代が結婚・出産の時代です。
当然のように、その子供たちは、着物について「更に」何も知りません。
そして今、母は86歳、私は59歳、
そして着物から離れ始めてしまった年代は今年96歳、
その子供の年代が69歳。
つまり、今現在60歳くらいの人から、親が着物を着ていないわけで、
70くらいのかたでさえ、着物を着られない人がいるわけです。
着られないということは、それだけでなく
「着物についての知識」も伝承されてないってことなんです。
私の同級生くらいの友人だと、一応の一般知識、
結婚式は留袖で、それは比翼仕立て、襦袢は白で、帯は金銀の袋帯で…とか
小紋や紬は街着、そういったこと、基本的なこと程度は知っています。
ぎりぎりですね。
今、着物にかかわる仕事をしている人の年齢を考えてみてください。
呉服屋で、50歳くらいの店員さんが「そりゃちがうだろ」というようなことを
平気で言っていても、実は不思議はないってことです。
たまたま身近にいつも着物があるような暮らしをしていたり、
私のようにたまたま親が着物好きだったりすると、
それなりに、つまり「その家流」であっても、
着物のさまざまななことが伝わります。
でも、何もないところから、たとえば「着付け教室」へいったりすると、
そこでおそわったことが全て、になってしまいます。
もちろん、マチガイではないと思うのですが、
昨日お話したように、さまざまなことがごちゃまぜになっていて、
はっきりしないことがあったり、また年代によっておしえることが違ったり、
そういうことが起きるわけです。
以前、例としてあげました「ウール着物はどこまで着られるか」。
人によって「寝巻きと同じ、家の中だけ」と教わった人もいれば、
「せいぜい近所のコンビにに買い物程度」と教わった人もいれば、
「色柄によってはオシャレ着」と教わった人もいれば…。
これは、それを教えた人の年代にもよるのです。
ただ「だから、きちんとしたところへは着ていかれない」ということは伝わっています。
昨日も書きましたが、戦後のモノのあまり十分でない時代には、ノウハウページに
「お通夜に着るのは地味な小紋や縞柄、それがないときはウールでも可」
とありました。これは、絹物がなかなか買えない、買うとしたらまず礼装、
そんな時代だったから、絹物がハデならジミなウールでも可、となるわけです。
今の時代は、着物を持っているなら、地味な小紋の一枚くらいあるでしょ、
だろうし、ウールは普段着です。実際には、お通夜は普段着でもいいのですから、
お通夜なら今でもいいと思うのですが、
今度はこの豊かな時代には「お通夜にウール?」という感覚があります。
昨日の喪服でも、大体は嫁入りに持たせるのが一番理由付けもいいので、
私も袷の喪服は嫁入りのときに作ってもらいました。
絽とあい(あい喪服=単)については、母は「余裕できたら」と言っていましたが、
後年は「最近は世の中変わったし、絽はいずれ自分のをやるから、
『あい』はもしものときは、貸衣装にしとき」と言ってました。
それでなくてもいろいろなことがどんどん変わった上に戦争があり、
着る人が減って、伝わることが減ったりなくなったり…。
更にそのうえもうひとつ「洋装の台頭」というのがありました。
実際、私が小さいころは、着物を着ないといっても、
まだまだ「何かのときは」着物でした。
お正月に自宅で着るのははもちろんのこと、目上のお宅へのお年始や里帰り、
子供の入学式や卒業式、お祝いやご挨拶でよそさまに正装でいくとき、
「やっぱ着物でしょ」でした。
それが「ブラックフォーマル」というものが現れて、
みんなそっちに移行してしまいました。
子供のことも慶弔のことも。今でこそブラックフォーマルは「喪服」ですが、
私が20代のころは、結婚式に着ていてもちっともおかしくありませんでした。
男性のブラックスーツが、ネクタイを替えることで慶弔両用になるのと同じで、
華やかなコサージュや光るアクセなど、身につけるもの持ち物を替えて、
結婚式にも着ていたのです。
やがて、お祝い事には明るい色が…なんてことでカラー・フォーマルが出てきました。
こうなると、着物の出番は減るばかりです。
そして…お葬式の「礼装」がなにがなにやらわからなくなってきた…
ということなんだと思います。
昨日も書きましたが、「着物」が日本の正装である以上、
私は洋装は同じ「黒」でも、同列にはならない、と思っています。
みなさんだってきっと「暑いし、たいへんだから洋服でいいわよ」とか
「着物が着られないから洋服にするわ」とかじゃありませんか?
それってつまり「本当は着物の喪服なんだけど」ってのが、
言葉に出していわないけれど、意識の中にあるってことです。
基本的に礼装は「気持ちを表す」ですが、単純に黒、ではなくて、
本当はもっとキメの細かい何かが大切なのではないかと、思ったりするわけです。
とりあえず、今日はこの辺にしておきます。
なんかちっとも進んだ気がしないのですが、戦後の日本の状況というもの、
少し具体的におわかりいただけましたかねぇ。
あぁあらためて、年取ったなぁと、そっちを実感しちまいました。
アクセサリーを変えるだけで、慶弔両方
いけると私も教わりました。
一度覚えた事は頭が堅いせいか長い事
そうだと思い込んでいましたよ。
昭和45年に結婚しましたが、その頃は
三日帰りというのがあって、頭をきれいに
セットしてもらって絹の着物で実家に帰ったものですが、そんな風習も無くなりましたね。
若い時の事を思い出すと、本当に歳いったなぁとさみしくなりますね。
こうやって年表で見せていただくと、それぞれの家庭の着物の記憶の変遷が分かり易くなりますね。
父は11年前の8月に亡くなりまして、その頃私は今のように着物を着てはいなかったのですが、葬儀屋さんの手配で絽の喪服を借りて着ました。
特に迷うことも無く「娘なんだから喪服(和装)」という流れだったと思います。
長くお元気でいて欲しいですね。
確かに年表を見ると時代の流れが分かります。
葬式でも喪服姿が少なくなってきました。
着物愛好家が増えたと言っても趣味の世界で増えただけ。
とんぼさんが成人された頃は略礼服の黒絵羽織の全盛期ではなかったでしょうか。
全く見なくなってしまいました。
短めの羽織も着姿が良かった。
その後に絵羽の道行がブームになりました。
一年程前、お客様のご主人がお亡くなりになった時、喪主の長男さんは白の着物に裸足で草履の姿で弔問客に立礼しておられました。
そのお宅は浄土真宗のお寺さんです。
しばし、感動しました。
今でもかまわないのですが、
あるブログで「結婚式にブラックフォーマルが
一人いて、確かに生花のコサージュなど
つけていたけど、寂しい感じがして、
一人浮いていた」と…。
たしかに今の華やかさでは、まけるでしょうね。
私も、旅行から帰ってすぐに、里帰りしました。
今でもそうなんでしょうか。
年はとりたくないですねぇ、ついていけない?
そう、特に意識しなくても、
廻りがそういう風に進めるから、
そういうものとして伝わるんだと思います。
「そういうものなんだ」が知識になるんですよね。
それがなくなったんですね。親からして…。
なんか寂しいです。
黒絵羽は、私が成人する前くらいです。
カラスの軍団なんていわれましたよね。
はやり捨田利は着物でもありますが、
ぴしっと決めるところは
決めてほしいと思います。
何がどう残っていくのかなーと、
不安な思いがありますね。