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先日父が古い本、と言っても横浜市の広報なのですが、持ってきした。
しっかり値段も書いてありまして、西口有隣堂で昭和50年、150円ナリ。「「市民グラフ」と言う名前です。
内容は表紙にあるとおり「あれから30年 空襲・戦災そして占領時代」というテーマ。
表紙は空襲の様子、白いもやもやは、バクダンによる火災の煙です。
左下の楕円のような形は、当時の「根岸競馬場」です。そこだけアップ。
根岸競馬場も、戦後米軍に接収され、あれこれ経緯あって1973年にようやく今の中央競馬会に
還されましたが、すでに競馬場として活用できる状況になく、今は市の運営する「根岸森林公園」と、
中央競馬会の作った「馬の博物館」などの大きな公園になっています。風見鶏ならぬ「風見馬」がありますよー。
語り継がれる東京大空襲は、とにかくすごかったのですが、横浜はもっとすごかった…といわれています。
確かに、犠牲者の数は十分の一にも満たないのですが、同じ、もしくはそれ以上の数の爆弾、焼夷弾が、
東京の半分の時間で、集中的に攻撃された…という記録があります。
横浜は、焼け野原…になったわけです。母が実父と結婚して京都から横浜にきて、初めてみた光景は、
まさしくその「残骸」だったわけで…。
明治維新のとき、横浜は東京の犠牲になった、或いは「盾」になった…といわれています。
アメリカが開港を迫ったとき、江戸幕府は今の東京湾の奥深く、つまり今のフォーターフロントに、
黒船を入れることは「お断り」したかったわけです。そこで横浜に港を開き、そちらへ…とお誘いしたんですね。
今の横浜あたりは、江戸に近かったため、幕府直轄領が多く、確かに横浜の今で言う六浦あたりには
海運の拠点となる港もあって、それなりに重要な地点ではありました。
しかし、ペリーさんに言われて「どーぞー」と見せたのは、慌てて作った新しい港、横浜…。
当時の横浜は「横浜村」、ちっぽけな漁村で、これといった観光の目玉があるわけではなく、
ほとんど人に知られない小さな村でした。
長崎の出島のように、外国人の居留地が作られ、外国人目当ての商売も始まり、
横浜は、盾にされた割りには、日本で初めて○○ができた、だの、初めて○○が売られた、だの、
結果的には、いち早く外国の文化を受け入れる「最先端の町」になったわけです。
そして終戦後、またそれと似たようなことが起こりました。
政府は、天皇のおわす東京に、米軍の拠点を大きく置きたくはなかったんですね。
そこでまた「横浜へどーぞー」となって…あぁあ、です。実に横浜市の60パーセント以上が占領されました。
横浜の地理をご存知のかた、京浜急行黄金町(こがねちょう)」をご存知と思います。
伊勢佐木町の奥、少し北側です。その前は滑走路でした。あっというまに飛行場が出来たのですね。
見渡す限りの焼け野原の中に残ったホテル・ニューグランドは、マッカーサーの宿舎になりました。
伊勢佐木町も、ここから先は日本人ははいっちゃダメ…ザキの不二家は私の子供のころの「三ツ星」ですが、
当時は「ヨコハマ・クラブ」という下士官の集まるバーなどの入った施設でした。
今「みなとヨコハマ」として観光客が訪れる元町や石川町、本牧など、あのあたり全部です。
あいたところにはすぐにかまぼこ型の兵舎、今で言うならプレハブとか大型テントとかいう仮設の家ですね、
それが立ち並び、壮観だったと、父がいってました。
さて、なんでこんな話をするかと申しますと…まぁなんて前フリが長いんでしょ。
実は、自分が着物を着るようになった若いころ、なんで横浜には「着物文化」ってものが、
見えてこないのだろう…となんとなく思っていました。
カンタンなことで、江戸で「粋でいなせな」江戸文化が育っているころ、
わがヨコハマ村では、じぃさま、とーちゃん、あんちゃんは、ちっこい船で魚を獲り、
ばぁさまやおっかぁは貝を採ったり海草干したり…。
粋もいなせも縁遠い土地だったわけで…。そこへ突然「異人さん」たちが大挙してやってきて…。
流行の先端の町になったわけで、着物で着飾る前にドレスになっちゃった??
そして戦後も、似たようなことが起きたのだと思います。
もちろん、ひなびた村から、発展してからは横浜にも「花街」はできました。
でも、江戸の吉原や深川、後の赤坂、神楽坂のように…ってわけには行きません。
また戦後は商売の規制もいろいろできましたから「歓楽街」と言う形で、伊勢佐木町などが残りましたし、
芸者さんもいましたけどねぇ、やっぱり「着物文化」が発展するような素地ではなかったのだと思います。
ファッションという意味では、横浜は和服より洋服…が発展しました。
私の若いころはハマトラが流行で、フクゾーのシャツにタータンの巻きスカート、ミハマの靴にキタムラのバッグ。
もちろん、当時の私には、とても全部買うことはできませんで、タツノオトシゴのマークのシャツは宝物でしたわ。
元町にあるマーケット「ユニオン」の紙袋を抱えて歩くのがオサレ~と言われましたっけ。
けっこう洋装ファッションにどっぷりハマっていた私ですから、当時のお店を思い出しても、
服や靴のお店ばかり…靴はいつも「エスペランサ」でしたねぇ。
もっとも着物関係は親の財布が頼りでしたから、ひとりで横浜の呉服屋に入ることはありませんでしたが、
それにしても着物姿は今と同じくらい、なかった気がします。
このグラフでも、終戦後少しずつ落ち着いてきた時代のものまであるのですが、
戦後の銀座などの写真では、まだまだ着物姿があるのに、横浜の戦後は洋服の女性ばかりです。
専門家ではありませんから、単なる勝手な想像ですが、横浜というところは、
江戸の盾になり、東京の身代わりになったことで、着物文化は育つ前に撃沈してしまったのかなと、
そんなことを思いました。
まぁそんなつまらない勝手な想像はこのへんにして…。
このところちょっとあれこれ雑事に追われていまして、書きかけ記事ばかりたまっています。
今「編むこと、と織ること」の違い…みたいなことをすでに二ヶ月くらい前から書き始めているのですが、
コレが難題で…。書いてるうちに話が縄文まで行っちゃいまして…。
ただいままとめ直しです。ゆっくり書けるのは、年度がかわってからでしょうか。
我が家は確定申告も、進学や進級もないというのに、なんで「年度末」って、こう雑用が増えるんでしょ。
昨日は天気大荒れで、今日はものすごい寒さでした。老骨にムチうってがんばりまっす。
本日のおまけ画像、この本の裏表紙、なつかしいです。
「クイントリツクス」…コメディアン・俳優の坊屋三郎さんと、外国人のかけあいCM。
外人さんが「クゥィントゥリツクス」と、すらっと英語で言うと「くいんとりっくす」と一字ずつ切るように、
しっかり日本語で言って「英語で言ってごらんよ」「発音わるいねぇ」「あんたガイジンだろ?」という…
このCMの大ヒットで、ナショナルパナカラーは、驚異的に売り上げを伸ばしたとか。
いまや私は、この浴衣が一体何反の同じ染のものを使ったか…そのほうが気になる?
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