今日は長いです。すんません。
お話を伺ったときから、発刊を楽しみにしていました。
この本の朗読の一部は、こちらへ。
Suzuka様の「朗読ブログ」です。
「アウシュビッツの沈黙」は、ナチスの強制収容所とゲットーで、
地獄の苦しみと恐怖の中を生き抜いた人たちの「記憶の歴史」を集めたものです。
私が初めて読んだ「ナチス」関連の本は、おそらく「アンネの日記」。
でも、残念なことに、私の記憶の中に何も残っていません。
たぶん、まだあまりにも幼くて「そのこと」を、
現実の問題として捉えることができず、物語として
「読んで気持ちのいい本ではない」と思ったからでしょう。
長じて、なにかしら雑誌やテレビなどで、当時「何が起きていたのか」を
知るに至って「そういうものであったのか」と、
改めて思ったというのんきものです。
その後読んだのは「夜と霧」「ゲットー脱出」「ヴァイツゼッカー演説の精神」
そして、今回の「アウシュビッツの沈黙」、
いえ、これはまだ読み始めなんですが…。
戦争について語るのは、あまりにも大きすぎて深すぎて、
とてものことに書ききれません。
ですから、ほんのちょっと「思ったこと」を書きます。
「証言」というのは、迫力が違います。
「そして彼らは銃殺されました」という淡々とした言葉、
でもそれは作られた物語ではなく、そのとき「その人」は
確かに銃弾によって命を絶たれたのです。
理不尽な死を押し付けられた「その人たち」の、その瞬間は、
どれぼとの恐怖であったろうか、それとも「ああこれでやっと終わる」
だったろうか、もしそうだとしたら、そのほうがラクだというあきらめは、
なんとおそろしいものだろうか…。
かなり昔に見た忘れられない写真があります。
いえ、実際に忘れられないのは、その下に書かれていた説明なのですが、
りっぱな部屋のりっぱなソファに、女優のような女性がにこやかに
優雅に座っている、その長くてスマートな足の下に敷かれているマットは
「ガス室に送られた人々の髪で編まれたものだ」、という記述でした。
あの女性はエヴァ(ヒトラーの愛人)だったのかななどとも思うのですが、
私が感じた恐怖は「人はここまで残酷になれるものなのか」ということでした。
かつて、日本では勝ち戦のあとは、落とした敵将の血まみれの首を前にして、
勝利の酒を酌み交わしたと言います。
そのとき、それは「異常なこと」でもなく「残虐なこと」でもないわけで、
髪の毛のマットに悠然と足をのせていることも、
血まみれの首を酒の肴にすることも同じ、
「当人たちにはもっともな、かつ正当な理由であった」、そのことが恐怖です。
原爆を落とした人たちの中にも「任務を遂行しただけだ」と胸を張り、
誇りさえ感じている老人もいれば、それによって何十万の人の命が消えたことを、
背負うべき十字架と捉えている人もいます。
何が人の気持ちを分けるのでしょう。
前述の「ヴァイツゼッカー」はドイツ人であり、かの対戦にも従事し、
戦後は政治にかかわり、そして大統領にまでなりました。
彼の演説での「過去に眼を閉ざす人は、結局現在にも盲目となる」という言葉は、
今でもさまざまに引用されるそうです。
ドイツはヒトラーという人間(それでも人間です)の狂気に飲み込まれ、
ゲットー、ホロコーストという、恐ろしい事実をこの世に残しました。
そのとき、大きなものに飲み込まれ、それを正当なことだと認識する、
それは時にこんなにも恐ろしいことを引き起こします。
かつて戦時中の日本でも「戦争反対」といったとたんに、弾圧を受けました。
町内からは「つまはじき」にされ、その人の子供はいじめられたといいます。
でも、のけものにしていた側の人間の中にも「ほんとは自分だってそう思う、
だけどそれを言ったら家族がひどいめにあう」と、
やりたくもない「つまはじき」に、いやいや参加していた人もいたと思います。
今もいますね、いじめられたくないからいじめる、あるいは見ないふりをする。
哀しいのは「飲み込まれる」人の思いです。
それを正しいと信じてしまう曇った心、
そうでないけれどしかたなく従う心、
そしてあとになってその弱さを恥じる心…。
「寄らば大樹の陰」という言葉があります。
今はあまり言い意味に使われていません。
どちらかというと「長いものには巻かれろ」的な、大きいものには逆らうなとか、
そのとき強いものにしたがっていたほうが安全だとか…。
でも、本当はそうではありません。
大樹の下によれば、大きな日陰で身を休めることもできる、
身を隠して安全を確保することもできる、
そのことから「頼るならば、そのことについて力や能力のあるひとを頼れ」
ということです。
そのとき、どちらの樹が大きいか、ではなく、
自分の人生の旅路にとってどの樹がもっとも頼るべき樹か、であって、
それを選ぶ自身の眼も確かでなければなりません。
その眼と心の強さは、平和である今、養われるべきものと思います。
夫の父は、通信の技術があったために「通信兵」として、何度も召集され、
最後はシベリアに抑留され、何人もの戦友を凍土の下に残して帰国した人です。
また私の実父は、明治生まれ、存命なら100歳を超えていますが、
子供のころは「大きくなったら兵隊さんになる」が当たり前の時代、
父も海軍にはいることを夢見ていたそうです。幸か不幸か胸の病で
軍にははいれず、軍艦に乗れないならせめて、と、父は海軍の技術者となり、
あの「人間魚雷」の製造に携わったと聞いています。
義父は、24年に生還し、そのあとはひたすら働き、
わずかばかりの植木と金魚をかうことだけを楽しみとして、
おごらず遊ばず楽しまず…。脳梗塞で倒れた義母が「もうこれ以上は」、
と退院を余儀なくされて、自宅で面倒をみなければならなくなったそのときまで、
定年後もずっとずっと働き続けました。
義父がなくなったとき、ガランとしたろくに家具もない部屋に
義父の遺体を寝かせ、当時海外にいた夫が緊急帰国するまでの数時間、
私は物言わぬ義父と二人だけで過ごしました。
義父は、生前も戦争のことは何もいいませんでした。
通信兵というならば、実際に銃剣をもって人を殺したことは
なかったのかもしれません。
でも義父は、自分がツートンツーツーと、打電したいくたの「電文」のために、
どこかでたくさんの人がなくなった、敵も味方も…と、
そう考えていたのではないでしょうか。
やせこけて、物言わぬ義父の顔を見ながら「おとうさんの背中には、
どれだけ重たいものが背負われていたのだろう」と思いました。
また、私の実父は、年代的に軍国少年であり、祖国のためにと海軍を志願し、
兵器を作っていましたが、戦後はその指に鉛筆を持ち直し、
ひいた図面は「車の修理に使う道具」でした。そのことについて、幼い私に
「これからは自動車が大活躍する時代になる、大きなトラックに食料や材木や、
いろんなものが乗せられて、みんなが暮らしていくのに役に立つようになる。
だからその車がいつもちゃんと走れるように、車のお医者さんが使う機械だよ」
と、そんな風に話してくれました。
父もまた戦争については、語ることはありませんでしたが、
子供のころ何年もいわれつづけたことがあります。
「お前が大人にななるころには、世の中はもっとインターナショナルに
なってゆく、女性も、もっと社会進出をし、世界に貢献できる
仕事につけるようになる、だからたくさん学びなさい、語学をやりなさい、
英語とフランス語は必須だ」と。
もちろん、子供に言うのですから、もっと噛み砕いた言い方です。
「いっぱいいろんなものを持っている国は、何もない国に手をかしてあげて、
みんなで仲良く暮らせるのが一番いいんだよ。
そういうことのお役に立つ人になりなさい」、そんな感じです。
残念ながら、父は私が12の年になくなり、我が家の経済は逼迫し、
大学どころか、通っていた私学も小学校まで。
中学からは公立にいき、更に更に、当時から「極楽とんぼ」だった私は、
父の言っていたことも「わかってるけどぉ、エーゴきらいだしぃ、
ふらんす語なんか、舌噛みそーじゃん」と、放棄してしまいました。
とんでもねぇ親不孝モノです。
そんな私でも、大人になり、子の親となって、「平和」であることが、
どれほど幸せなことか、戦争を経験しなくとも思います。
今の息子の状況だったら、もし戦争になってもとても空襲三昧の日々や、
ゲットーのような暮らしには耐えられません。
真っ先に二人で死ぬしかありません。
私は幸いにも「戦争」を生きた人たちと実際に関わることのできた年代です。
義父も実父も、直接戦争について語ることはなくても、その後の生き方で、
私に「戦争なんてロクなもんじゃない」と教えてくれました。
今の若い方は、親も戦争を知らない世代です。
だからこそ、本でも映像でも、しっかり見て読んで
聞いていただきたいと思うのです。
子供のころから、絵本でも物語でも戦争と平和について、見せてあげてください。
お若いかた、この本を読んでください。
「寄るべき大樹を見誤らないように」、もし間違えたらとんでもないことになる、
戦争という大樹は、その下に寄ってもただ毛虫ばかりが落ちてくる、
そして決して「実」というもののなり得ない、恐ろしくて哀しい大樹なのです。
寄りたくなくても寄らなくてはならない、なんてことにならないように。
最後に、「本の紹介」のつもりが、勝手に自分思いばかりを
つづってしまいましたことを、お詫びします。
この本は日本の戦争について書いた本ではありませんが、
遠いかの地で起きたことも、この国に原爆が落とされたことも、
すべては同じ時に人がおこなった「いくさ」というバカげた行為の結果です。
極限の中で、たくさんのことをあきらめ、それでも生きながらえた人々の、
「残さねばならぬ」という思い、伝えることの大切さを、
感じ取っていただきたいと思います。
「裾よけ」についての記事は、明日にさせていただきます。ごめんなさい。
お話を伺ったときから、発刊を楽しみにしていました。
この本の朗読の一部は、こちらへ。
Suzuka様の「朗読ブログ」です。
「アウシュビッツの沈黙」は、ナチスの強制収容所とゲットーで、
地獄の苦しみと恐怖の中を生き抜いた人たちの「記憶の歴史」を集めたものです。
私が初めて読んだ「ナチス」関連の本は、おそらく「アンネの日記」。
でも、残念なことに、私の記憶の中に何も残っていません。
たぶん、まだあまりにも幼くて「そのこと」を、
現実の問題として捉えることができず、物語として
「読んで気持ちのいい本ではない」と思ったからでしょう。
長じて、なにかしら雑誌やテレビなどで、当時「何が起きていたのか」を
知るに至って「そういうものであったのか」と、
改めて思ったというのんきものです。
その後読んだのは「夜と霧」「ゲットー脱出」「ヴァイツゼッカー演説の精神」
そして、今回の「アウシュビッツの沈黙」、
いえ、これはまだ読み始めなんですが…。
戦争について語るのは、あまりにも大きすぎて深すぎて、
とてものことに書ききれません。
ですから、ほんのちょっと「思ったこと」を書きます。
「証言」というのは、迫力が違います。
「そして彼らは銃殺されました」という淡々とした言葉、
でもそれは作られた物語ではなく、そのとき「その人」は
確かに銃弾によって命を絶たれたのです。
理不尽な死を押し付けられた「その人たち」の、その瞬間は、
どれぼとの恐怖であったろうか、それとも「ああこれでやっと終わる」
だったろうか、もしそうだとしたら、そのほうがラクだというあきらめは、
なんとおそろしいものだろうか…。
かなり昔に見た忘れられない写真があります。
いえ、実際に忘れられないのは、その下に書かれていた説明なのですが、
りっぱな部屋のりっぱなソファに、女優のような女性がにこやかに
優雅に座っている、その長くてスマートな足の下に敷かれているマットは
「ガス室に送られた人々の髪で編まれたものだ」、という記述でした。
あの女性はエヴァ(ヒトラーの愛人)だったのかななどとも思うのですが、
私が感じた恐怖は「人はここまで残酷になれるものなのか」ということでした。
かつて、日本では勝ち戦のあとは、落とした敵将の血まみれの首を前にして、
勝利の酒を酌み交わしたと言います。
そのとき、それは「異常なこと」でもなく「残虐なこと」でもないわけで、
髪の毛のマットに悠然と足をのせていることも、
血まみれの首を酒の肴にすることも同じ、
「当人たちにはもっともな、かつ正当な理由であった」、そのことが恐怖です。
原爆を落とした人たちの中にも「任務を遂行しただけだ」と胸を張り、
誇りさえ感じている老人もいれば、それによって何十万の人の命が消えたことを、
背負うべき十字架と捉えている人もいます。
何が人の気持ちを分けるのでしょう。
前述の「ヴァイツゼッカー」はドイツ人であり、かの対戦にも従事し、
戦後は政治にかかわり、そして大統領にまでなりました。
彼の演説での「過去に眼を閉ざす人は、結局現在にも盲目となる」という言葉は、
今でもさまざまに引用されるそうです。
ドイツはヒトラーという人間(それでも人間です)の狂気に飲み込まれ、
ゲットー、ホロコーストという、恐ろしい事実をこの世に残しました。
そのとき、大きなものに飲み込まれ、それを正当なことだと認識する、
それは時にこんなにも恐ろしいことを引き起こします。
かつて戦時中の日本でも「戦争反対」といったとたんに、弾圧を受けました。
町内からは「つまはじき」にされ、その人の子供はいじめられたといいます。
でも、のけものにしていた側の人間の中にも「ほんとは自分だってそう思う、
だけどそれを言ったら家族がひどいめにあう」と、
やりたくもない「つまはじき」に、いやいや参加していた人もいたと思います。
今もいますね、いじめられたくないからいじめる、あるいは見ないふりをする。
哀しいのは「飲み込まれる」人の思いです。
それを正しいと信じてしまう曇った心、
そうでないけれどしかたなく従う心、
そしてあとになってその弱さを恥じる心…。
「寄らば大樹の陰」という言葉があります。
今はあまり言い意味に使われていません。
どちらかというと「長いものには巻かれろ」的な、大きいものには逆らうなとか、
そのとき強いものにしたがっていたほうが安全だとか…。
でも、本当はそうではありません。
大樹の下によれば、大きな日陰で身を休めることもできる、
身を隠して安全を確保することもできる、
そのことから「頼るならば、そのことについて力や能力のあるひとを頼れ」
ということです。
そのとき、どちらの樹が大きいか、ではなく、
自分の人生の旅路にとってどの樹がもっとも頼るべき樹か、であって、
それを選ぶ自身の眼も確かでなければなりません。
その眼と心の強さは、平和である今、養われるべきものと思います。
夫の父は、通信の技術があったために「通信兵」として、何度も召集され、
最後はシベリアに抑留され、何人もの戦友を凍土の下に残して帰国した人です。
また私の実父は、明治生まれ、存命なら100歳を超えていますが、
子供のころは「大きくなったら兵隊さんになる」が当たり前の時代、
父も海軍にはいることを夢見ていたそうです。幸か不幸か胸の病で
軍にははいれず、軍艦に乗れないならせめて、と、父は海軍の技術者となり、
あの「人間魚雷」の製造に携わったと聞いています。
義父は、24年に生還し、そのあとはひたすら働き、
わずかばかりの植木と金魚をかうことだけを楽しみとして、
おごらず遊ばず楽しまず…。脳梗塞で倒れた義母が「もうこれ以上は」、
と退院を余儀なくされて、自宅で面倒をみなければならなくなったそのときまで、
定年後もずっとずっと働き続けました。
義父がなくなったとき、ガランとしたろくに家具もない部屋に
義父の遺体を寝かせ、当時海外にいた夫が緊急帰国するまでの数時間、
私は物言わぬ義父と二人だけで過ごしました。
義父は、生前も戦争のことは何もいいませんでした。
通信兵というならば、実際に銃剣をもって人を殺したことは
なかったのかもしれません。
でも義父は、自分がツートンツーツーと、打電したいくたの「電文」のために、
どこかでたくさんの人がなくなった、敵も味方も…と、
そう考えていたのではないでしょうか。
やせこけて、物言わぬ義父の顔を見ながら「おとうさんの背中には、
どれだけ重たいものが背負われていたのだろう」と思いました。
また、私の実父は、年代的に軍国少年であり、祖国のためにと海軍を志願し、
兵器を作っていましたが、戦後はその指に鉛筆を持ち直し、
ひいた図面は「車の修理に使う道具」でした。そのことについて、幼い私に
「これからは自動車が大活躍する時代になる、大きなトラックに食料や材木や、
いろんなものが乗せられて、みんなが暮らしていくのに役に立つようになる。
だからその車がいつもちゃんと走れるように、車のお医者さんが使う機械だよ」
と、そんな風に話してくれました。
父もまた戦争については、語ることはありませんでしたが、
子供のころ何年もいわれつづけたことがあります。
「お前が大人にななるころには、世の中はもっとインターナショナルに
なってゆく、女性も、もっと社会進出をし、世界に貢献できる
仕事につけるようになる、だからたくさん学びなさい、語学をやりなさい、
英語とフランス語は必須だ」と。
もちろん、子供に言うのですから、もっと噛み砕いた言い方です。
「いっぱいいろんなものを持っている国は、何もない国に手をかしてあげて、
みんなで仲良く暮らせるのが一番いいんだよ。
そういうことのお役に立つ人になりなさい」、そんな感じです。
残念ながら、父は私が12の年になくなり、我が家の経済は逼迫し、
大学どころか、通っていた私学も小学校まで。
中学からは公立にいき、更に更に、当時から「極楽とんぼ」だった私は、
父の言っていたことも「わかってるけどぉ、エーゴきらいだしぃ、
ふらんす語なんか、舌噛みそーじゃん」と、放棄してしまいました。
とんでもねぇ親不孝モノです。
そんな私でも、大人になり、子の親となって、「平和」であることが、
どれほど幸せなことか、戦争を経験しなくとも思います。
今の息子の状況だったら、もし戦争になってもとても空襲三昧の日々や、
ゲットーのような暮らしには耐えられません。
真っ先に二人で死ぬしかありません。
私は幸いにも「戦争」を生きた人たちと実際に関わることのできた年代です。
義父も実父も、直接戦争について語ることはなくても、その後の生き方で、
私に「戦争なんてロクなもんじゃない」と教えてくれました。
今の若い方は、親も戦争を知らない世代です。
だからこそ、本でも映像でも、しっかり見て読んで
聞いていただきたいと思うのです。
子供のころから、絵本でも物語でも戦争と平和について、見せてあげてください。
お若いかた、この本を読んでください。
「寄るべき大樹を見誤らないように」、もし間違えたらとんでもないことになる、
戦争という大樹は、その下に寄ってもただ毛虫ばかりが落ちてくる、
そして決して「実」というもののなり得ない、恐ろしくて哀しい大樹なのです。
寄りたくなくても寄らなくてはならない、なんてことにならないように。
最後に、「本の紹介」のつもりが、勝手に自分思いばかりを
つづってしまいましたことを、お詫びします。
この本は日本の戦争について書いた本ではありませんが、
遠いかの地で起きたことも、この国に原爆が落とされたことも、
すべては同じ時に人がおこなった「いくさ」というバカげた行為の結果です。
極限の中で、たくさんのことをあきらめ、それでも生きながらえた人々の、
「残さねばならぬ」という思い、伝えることの大切さを、
感じ取っていただきたいと思います。
「裾よけ」についての記事は、明日にさせていただきます。ごめんなさい。
ありますが、身震いするほど恐ろしい
とその時思いました。
人が人を殺すなんて、それも残虐な方法で・・・おろかな事と分かっていながら
どうする事も出来なかったのかと今でも
思います。戦争というものを知らずに育った
私も、父が多くを語らなかった事で余計に
口にするのもイヤな状況だったんだと思います。
この記録は、手がけた人、持ちこたえた人、さまざまの方の意思にまもられて、形になりました。
そして、ひとはここまで残虐になれるということだけでなく、ここまで勇気を持つこともできるのだという、そんな思いを持てる気がするのです。
夫が、というくくりをはずして、
この記憶を共有していただければと思います。
「記憶を継ぐ ~『アウシュビッツの沈黙』より」(http://www.voiceblog.jp/clarte09/)で、証言の一部をお伝えしてゆきます。
わかりやすいように、あらたに書き起こしもしてもらいました。
聴いていただければうれしいです。
おそくなってすみません。
人間って、恐ろしいものですね。
動物は、生きるために食べる分しか、
おそわないけれど、
人間は「おもしろくない」だけで、
殺したりする…。まして集団になると、
正しいことなんて、姿変えちゃうんですね。
戦後に生まれて、ほんとにしあわせです。
Suzuka様
遅くなってすみません。
あの狂気のなかで、平静を保ち、
なおかつその後も生きてきたという、
精神力の強さ、運の強さを思います。
いまでいうならPTSDも、当然ひどいと
思いますし、本のなかでも「今でも、
立ち直っていない」人たちがいることが、
書かれていました。
一生のごく一部である期間に、
一生をだいなしにするほどの蹂躙を受けた、
その人の生きている意味を、意義を、
私たちも知らねばならないと思います。