木綿は、今の暮らしの中でも、絹より麻よりなじみが深い繊維ですね。
今日は木綿のお話です。
「歴史」
木綿の歴史…実はとても長いあまりにややこしくて、うまく説明できないのですが…。
まず、木綿関係の本を読むと「旧世界棉」「新世界棉」と言う言葉が出てきます。
「旧世界」とはヨーロッパがコロンブスによって、新しい大陸を知らされるまでの「世界」
つまりアメリカ大陸やオーストラリアが入っていません。「新世界」は発見後、です。
ところが木綿そのものは、インドあたり、メキシコあたりと、別々の大陸で、
7000年前8000年前に、すでにそれぞれのところで始まっていたわけです。
別々のところで文化が育ち始めていましたので、交易などにより、
木綿の流れ(木綿だけでなく植物の世界)がいろいろに変化したわけです。
それで棉も「旧・新」と歴史がかわっているのです。
あまりに多種なので、今回は現代の大雑把な分け方のみ、お話しさせていただきます。
今の時代は「エジプト」「アメリカ」「アジア」の三種が大きな「くくり」です。
これは「とれる綿の繊維の長さ」による分け方です。
アメリカ系は今「アップランド綿」と呼ばれていますが、花はアジア系などと違って白っぽく、
開花から結実してしぼむまでの間に色が変わります。
アジア系は黄色で花芯付近が赤紫です。
繊維としては、エジプト綿が一番長く「長繊維」、アメリカが「中」、アジア系が「短」です。
長いものはしなやかさもあるので、高級洋装素材などに使われます。
日本ではずっとアジア系の綿が入っていましたし、栽培もその種でしたから、
太めでモコッとした木綿が主流ですね。「太物」とよばれた所以です。
インド綿の服などは、厚めでなんとなくもそもそして、感触が似ています。
木綿の表示でよく「エジプト綿」とか「新疆綿」とか「スーピマ」とか書いてあります。
それぞれ特徴があり、その特徴がいかされるものに使われていると言うわけです。
「伝来」
布としての木綿は、奈良時代の御物などにもありますが、
それはあくまで「貴重な贈り物」として入ったもの。
栽培技術と種子が日本に最初に伝わったのは800年ころ、
三河(今の愛知県三河地方)に、難破船から助け出された「崑崙人(インド人)」が、
綿の種を持っていて、三河で栽培を教えて始まった…というのが最初なのですが…。
実はこのときの木綿は気候にあわず、うまくいきませんでした。
その後わずかに作られたものも絶滅し、日本で栽培が始まったのは更に600年もたってから…。
室町ごろに中国から種子が入り、これが各地に広まりました。
そのときは「三河」は、気候があったため、木綿の一大産地になりました。
江戸時代の隆盛はなくなりましたが、今でも帯芯などは「三河芯」がいいとされます。
戦国時期は、日本はまだ国中落ち着かなかったわけですが、
木綿の多くは「軍需産業」として発展しました。
つまり「戦用」、衣服や道具、そして信長においては「火縄銃の縄」…。
これもあって、信長は木綿栽培を奨励したと言われています。
やがて世の中が落ち着いて、木綿は戦モノを離れ、
日常生活においての大切な繊維、生地になっていったわけです。
「木綿の特徴」
綿花が咲いて結実すると、種の周りに綿ができますが、これが成長とともに伸びます。
種から綿をとることを「操綿」といいますが、種類には関係なく、
どの綿も「外側のほうからは長い繊維のもの」がとれ「種の周囲には短い繊維のもの」が残ります。
この繊維の長さが種類によって違うわけで、エジプト綿などは「長繊維」、「アジア系」は短繊維です。
どの木綿でも、外側の長いものを「リント」といい、これが綿糸などになります。
種近くの短いものを「リンター」と言います。リンター綿という言葉を耳にしたことはありませんか?
これは種の周りに残ったものを集めて使う…。
リンターは糸や布、不織布、細かい日用品などに使われます。キュプラなどはこれです。
最近よくきかれる「オーガニックコットン」は、漂白などをしていないものです。
元々綿は真っ白ではなく「生成り」と言われる色。やや黄味がある色ですね。
自然素材として人気がありますが、今「カラード・コットン」という、
より原種に近い茶色のコットンが作られています。
「蚕」もそうですが、人の手によって人間に都合のいいように変えられてれていくわけで、
綿も、少しずつ白い綿になるように作られてきたわけです。
その研究途中で突然変異として「昔の遺伝子を持つもの」が出現したそうで、
この綿の花は「茶色」です。より自然色、ということで珍重されるわけですね。
リントもリンターもとってしまうと、あとに種が残ります。
これをつぶして搾ったのが「綿実油」です。そして搾りカスは、よい肥料になります。
蚕は「蛹」の状態で死なせるわけですが、そのあとは質のよい飼料になりますし、
今は油(動力用)にしたり、ペットフードなどの利用法も研究されているそうです。
また「麻」も種や花は元々医療や食料に使いますし、
繊維をとった後の芯、つまり茎は「麻ガラ(オガラ)」になりますね。
お盆などの「迎え火」にたくあれです。元々繊維質ですから、
麻の農家は、これを燃料として使いました。自然のものと言うのは、本当にムダがないんですね。
しかも、つぎの命へとつなぐ材料になるのですからすごいです。
「操糸」
<綿繰り>
木綿は摘み取ったあと、まず種を出すために「綿繰り機」というものにかけます。
これは実物を骨董市で見たことがあったのですが、残念ながら壊れていまして、
正しい形も使い方も分かりませんでした。写真はこちらで見つけました。
使っているところの動画はこちら。いや、見てても気持ちいいです。
綿繰り機で綿と種を分ける
<綿打ち>
こうして種をとった綿をほぐします。これを「綿打ち」といいます。
上の「綿繰り機」の同じページの下に「ハンドカーダー」の写真がありますが
これは打ちませんが同じ「綿ほぐし」のための道具(羊毛用)です。
種をとった綿は、ほぐして糸にしやすくするわけです。
写真のものは手芸用と言いますか、自宅用くらい。工場などでは当然機械です。
機械がなかった昔は「綿打ち」は、弓の弦を使って弾き飛ばしてほぐしました。
これの一連の作業の写真を見つけましたこちらです。
弓が見えにくいですが、いわゆる弓と同じ形です。
<糸紡ぎ>
綿がほぐれたら、ここから糸を紡いでいきます。
この「糸紡ぎ」と言う作業は、羊毛から毛糸、綿から綿糸、絹の場合は真綿から紬糸を紡ぐ、
そのために使われる道具ですから、世界中にいろいろな形のものがあります。
いわゆる「糸車」ですね。写真が小さくてすみませんがこちらが糸車。
これは京都西陣の「織成館(おりなすかん)」という、日本中の織物を集めた資料館にあったもの。
糸というのは、そのままでは丈夫さにかけるので、必ず「撚り」をかけます。
糸車にかけながら撚りながら糸にするわけですね。
このほかインドでは有名な「チャルカ」という、床において円盤を横にしたまま回す糸車もあります。
「無抵抗の抵抗」で有名なマハトマ・ガンジーが、自分で着るものは自分で紡ぐ…と、
自分のチャルカで糸を紡いだのは有名な話です。
このほか綿を細長い「ふがし」みたいな形にして、片手でまわしながら紡ぐ「スピンドル」と言うものもあります。
いずれにしても、洋の東西を問わず、昔の女性は綿を取ったり糸をとったり、
本当によく働いたのですね。
綿が糸になったところで、今日は終わりにします。
写真は「藍木綿さまざま」
*参考文献*
「きものという農業」中谷比佐子著 三五館
「絹と木綿の江戸時代」山脇悌二郎著 吉川弘文館
*参考HP*
「丹羽ふとん店」の「綿から糸への道具使い」
*参考動画*
「YOUTUBE」の「綿繰り機で綿と種を分ける」
今日は木綿のお話です。
「歴史」
木綿の歴史…実はとても長いあまりにややこしくて、うまく説明できないのですが…。
まず、木綿関係の本を読むと「旧世界棉」「新世界棉」と言う言葉が出てきます。
「旧世界」とはヨーロッパがコロンブスによって、新しい大陸を知らされるまでの「世界」
つまりアメリカ大陸やオーストラリアが入っていません。「新世界」は発見後、です。
ところが木綿そのものは、インドあたり、メキシコあたりと、別々の大陸で、
7000年前8000年前に、すでにそれぞれのところで始まっていたわけです。
別々のところで文化が育ち始めていましたので、交易などにより、
木綿の流れ(木綿だけでなく植物の世界)がいろいろに変化したわけです。
それで棉も「旧・新」と歴史がかわっているのです。
あまりに多種なので、今回は現代の大雑把な分け方のみ、お話しさせていただきます。
今の時代は「エジプト」「アメリカ」「アジア」の三種が大きな「くくり」です。
これは「とれる綿の繊維の長さ」による分け方です。
アメリカ系は今「アップランド綿」と呼ばれていますが、花はアジア系などと違って白っぽく、
開花から結実してしぼむまでの間に色が変わります。
アジア系は黄色で花芯付近が赤紫です。
繊維としては、エジプト綿が一番長く「長繊維」、アメリカが「中」、アジア系が「短」です。
長いものはしなやかさもあるので、高級洋装素材などに使われます。
日本ではずっとアジア系の綿が入っていましたし、栽培もその種でしたから、
太めでモコッとした木綿が主流ですね。「太物」とよばれた所以です。
インド綿の服などは、厚めでなんとなくもそもそして、感触が似ています。
木綿の表示でよく「エジプト綿」とか「新疆綿」とか「スーピマ」とか書いてあります。
それぞれ特徴があり、その特徴がいかされるものに使われていると言うわけです。
「伝来」
布としての木綿は、奈良時代の御物などにもありますが、
それはあくまで「貴重な贈り物」として入ったもの。
栽培技術と種子が日本に最初に伝わったのは800年ころ、
三河(今の愛知県三河地方)に、難破船から助け出された「崑崙人(インド人)」が、
綿の種を持っていて、三河で栽培を教えて始まった…というのが最初なのですが…。
実はこのときの木綿は気候にあわず、うまくいきませんでした。
その後わずかに作られたものも絶滅し、日本で栽培が始まったのは更に600年もたってから…。
室町ごろに中国から種子が入り、これが各地に広まりました。
そのときは「三河」は、気候があったため、木綿の一大産地になりました。
江戸時代の隆盛はなくなりましたが、今でも帯芯などは「三河芯」がいいとされます。
戦国時期は、日本はまだ国中落ち着かなかったわけですが、
木綿の多くは「軍需産業」として発展しました。
つまり「戦用」、衣服や道具、そして信長においては「火縄銃の縄」…。
これもあって、信長は木綿栽培を奨励したと言われています。
やがて世の中が落ち着いて、木綿は戦モノを離れ、
日常生活においての大切な繊維、生地になっていったわけです。
「木綿の特徴」
綿花が咲いて結実すると、種の周りに綿ができますが、これが成長とともに伸びます。
種から綿をとることを「操綿」といいますが、種類には関係なく、
どの綿も「外側のほうからは長い繊維のもの」がとれ「種の周囲には短い繊維のもの」が残ります。
この繊維の長さが種類によって違うわけで、エジプト綿などは「長繊維」、「アジア系」は短繊維です。
どの木綿でも、外側の長いものを「リント」といい、これが綿糸などになります。
種近くの短いものを「リンター」と言います。リンター綿という言葉を耳にしたことはありませんか?
これは種の周りに残ったものを集めて使う…。
リンターは糸や布、不織布、細かい日用品などに使われます。キュプラなどはこれです。
最近よくきかれる「オーガニックコットン」は、漂白などをしていないものです。
元々綿は真っ白ではなく「生成り」と言われる色。やや黄味がある色ですね。
自然素材として人気がありますが、今「カラード・コットン」という、
より原種に近い茶色のコットンが作られています。
「蚕」もそうですが、人の手によって人間に都合のいいように変えられてれていくわけで、
綿も、少しずつ白い綿になるように作られてきたわけです。
その研究途中で突然変異として「昔の遺伝子を持つもの」が出現したそうで、
この綿の花は「茶色」です。より自然色、ということで珍重されるわけですね。
リントもリンターもとってしまうと、あとに種が残ります。
これをつぶして搾ったのが「綿実油」です。そして搾りカスは、よい肥料になります。
蚕は「蛹」の状態で死なせるわけですが、そのあとは質のよい飼料になりますし、
今は油(動力用)にしたり、ペットフードなどの利用法も研究されているそうです。
また「麻」も種や花は元々医療や食料に使いますし、
繊維をとった後の芯、つまり茎は「麻ガラ(オガラ)」になりますね。
お盆などの「迎え火」にたくあれです。元々繊維質ですから、
麻の農家は、これを燃料として使いました。自然のものと言うのは、本当にムダがないんですね。
しかも、つぎの命へとつなぐ材料になるのですからすごいです。
「操糸」
<綿繰り>
木綿は摘み取ったあと、まず種を出すために「綿繰り機」というものにかけます。
これは実物を骨董市で見たことがあったのですが、残念ながら壊れていまして、
正しい形も使い方も分かりませんでした。写真はこちらで見つけました。
使っているところの動画はこちら。いや、見てても気持ちいいです。
綿繰り機で綿と種を分ける
<綿打ち>
こうして種をとった綿をほぐします。これを「綿打ち」といいます。
上の「綿繰り機」の同じページの下に「ハンドカーダー」の写真がありますが
これは打ちませんが同じ「綿ほぐし」のための道具(羊毛用)です。
種をとった綿は、ほぐして糸にしやすくするわけです。
写真のものは手芸用と言いますか、自宅用くらい。工場などでは当然機械です。
機械がなかった昔は「綿打ち」は、弓の弦を使って弾き飛ばしてほぐしました。
これの一連の作業の写真を見つけましたこちらです。
弓が見えにくいですが、いわゆる弓と同じ形です。
<糸紡ぎ>
綿がほぐれたら、ここから糸を紡いでいきます。
この「糸紡ぎ」と言う作業は、羊毛から毛糸、綿から綿糸、絹の場合は真綿から紬糸を紡ぐ、
そのために使われる道具ですから、世界中にいろいろな形のものがあります。
いわゆる「糸車」ですね。写真が小さくてすみませんがこちらが糸車。
これは京都西陣の「織成館(おりなすかん)」という、日本中の織物を集めた資料館にあったもの。
糸というのは、そのままでは丈夫さにかけるので、必ず「撚り」をかけます。
糸車にかけながら撚りながら糸にするわけですね。
このほかインドでは有名な「チャルカ」という、床において円盤を横にしたまま回す糸車もあります。
「無抵抗の抵抗」で有名なマハトマ・ガンジーが、自分で着るものは自分で紡ぐ…と、
自分のチャルカで糸を紡いだのは有名な話です。
このほか綿を細長い「ふがし」みたいな形にして、片手でまわしながら紡ぐ「スピンドル」と言うものもあります。
いずれにしても、洋の東西を問わず、昔の女性は綿を取ったり糸をとったり、
本当によく働いたのですね。
綿が糸になったところで、今日は終わりにします。
写真は「藍木綿さまざま」
*参考文献*
「きものという農業」中谷比佐子著 三五館
「絹と木綿の江戸時代」山脇悌二郎著 吉川弘文館
*参考HP*
「丹羽ふとん店」の「綿から糸への道具使い」
*参考動画*
「YOUTUBE」の「綿繰り機で綿と種を分ける」
明けても暮れても、ただひたすら同じ作業を
繰り返さないといけないのは、根気のいる
事ですね。
綿や糸にする道具を考えた昔の人はスゴイ
ですね。
珍しい動画も楽しませて頂きました。
たとえカレンダーは日曜祭日でも、
お蚕さんたちは待ってくれませんものねぇ。
毎日毎日、本当に大変だと思います。
昔の道具って、素朴なんだけど、
実にうまくできています。
叔父のところの足踏み脱穀機を思い出しました。
あれももう捨てられたはずです。
惜しいことしたぁ…。