取っておいてなかなかゆっくり読めなくて…の新聞。読売新聞 今年4月9日の朝刊「文化面」。
栃木、下野市の古墳から二体の「機織り形埴輪」が出土したという記事です。
トップ写真がその記事に載っていた写真です。
以前「織物っていつ誰が…」という記事を書きました。
その時に「機織り」のことも書きましたが、今回、それまでに発見されていたのは、
部分的なもので、考古学者は、そこから「こういうものであろう」という「原始機」を
再現したものを作りました。理論的にそれがどれほど正しくても、
現物がないものは、どこまでいっても「と、思われる」です。
今回、全部の形が出土したことで、再現が間違っていなかったという証明ができたわけです。
その「正しかったことが証明された再現の原始機」がこちらです。
自分の足で、押して支えるんですね。たいへんだったでしょうねぇ。
今までの記録では「と、思われる」という絵しかありませんでした。
トップ写真は少し進んだ「地機」です。
想像して復元したものが右下の小さい写真です。よってみました。
なんだかかわいいですね。
今回の発掘で、出土したもの、副葬品などを見ると、どうやら女性のお墓だったと思われるそうです。
副葬品として、この地機と原始機の両方が出土したということで、ほんとによくぞ残ってくれた、です。
わずかに顔料が残っていたそうで、調べたところ、色は白、赤、黒、灰色の4色で、
埴輪の人形部分を復元してみたところ、このような水玉の上着に、市松の裳…だったのですと。
なかなかのセンスではありませんか。
形や色だけがわかったわけではありません。
原始機と地機が一緒に出てきたということは、同時進行で使われていたということですね。
やはり身分とか、作るものによって違ったのでしょう。
また、この二つの機では、できる布の長さに限界があります。
原始機は、2メートルくらいのものしか織れないそうです。
それを二枚使うと「貫頭衣」の大きさです。また、当時の税の「調」、あの「租庸調」ですね、
その納める布の長さが、やはりこの機でできる長さを基準にしていたと思われるそうです。
絹を織るには「高機」ですが、この「高機」の埴輪は出土しなかった…ということは、使われていなかった…
ではなく、同時期に伝わったものの中でも、絹を織るための高機は、まだ広まらなかった…、
なぜか、養蚕がまだ発達していなかったから…でしょうね。
当時は布といえば「麻」が主流だったわけです。
麻などの植物繊維は、そのまま一本では何十メートルもの長さになりません。
だから原始機、地機でちょうどよかったわけです。
一方絹は、蚕1個で軽く1000メートルを超えるわけですから、その長い糸をさばいて機を織るには、
高機が必要だった…ひっくり返すと「絹をとる養蚕がさかんにならなければ、高機は広まらない」です。
一つのことだけが突出して伸びるのではなく、様々なものと事情と状況が絡み合って、
文化文明はそだっていくもの、ですね。
たった一つの埴輪が出土しただけで、今までグレーゾーンだったものが、はっきりする、
そうすると、そこから先のことも、やっぱりこっちだった、とか、これは両方だった、とか、
さまざまなことがパズルのピースをはめ込むようにわかってくるわけで。
そして同時に「じゃこれはなんなんだ?」「これは違ったのか」…と、新たな謎が生まれるのでしょう。
私は、自分自身は発掘したいとか調べたいとかは思わないのですが、
こういう記事を読むと、ワクワクします。
エジプトの謎も、インカの謎も、まだまだ解き明かされていません。
日本だって、いまだに「邪馬台国はここであったと立証されました」は、ないわけで…。
科学万能になって、なんでも証明、なんでも証拠、それがなければ認められない…みたいな
そんな世の中です。もちろん、そうやって証明されたことの恩恵は莫大なものではありますが、
「わからないこと」「謎」、それも一緒にあっての暮らしでいいじゃないかと…。
UFOも妖怪も、いてほしいなぁと思う私です。
http://www.city.shimotsuke.lg.jp/ct/other000024600/kabutotukahataorigatahaniwa.pdf#search='%E4%B8%8B%E9%87%8E%E5%B8%82+%E5%9F%B4%E8%BC%AA+%E6%A9%9F%E7%B9%94'
写真で見る限りでは、綜絖より先は復元のものと同じようですね。
筬を使っていたかどうかは分からないですが、地機も同時代にあって上布並みの麻布が織られていたなら、筬があった可能性も高そうです。
太布のレベルなら、筬なしでも織れそうですけど。
この機は輪状整経ですので、今残っているのは東南アジアの方です。
インドネシアとかではまだこういう機が残っていて、ただ、足で押すのではなく反対側の棒(板でなくて棒です)を紐で木の枝に掛けたりして、片側2mちょっと、計4m強くらいの布は織れるようです。
この形式で腰で経糸を引いてある程度のテンションを掛けられるのが、そのくらいの長さということだと思います。
南米の方にも原始端が残っているところがありますが、そちらは織る長さ分の経糸を張る方式で、ただ巻き取ることもするので、ある程度の長さが織れるようです。
あと、日本でも伊豆諸島で原始機で紐(というかベルト)をごく最近まで織っていたところがありますが、これは輪状整経ではなかったようです。
織っているものが背負籠の紐とかだったようなので、そんなに長いものは織らなかったかもしれませんが。
あと、復元では緯打具と糸巻きが別になっていますが、これは地機と同じように一体化したものだったかもしれませんね。
高機と地機の違いは、テンションのかけ方が違うので経糸が強くなければ高機は使えない、絹糸かどうかは関係ありません。
絹糸でも、生糸から取れるのは3千メートルとか言いますが、実際に織るときには昔なら一匹つまり25mくらいです。
地機の場合は、腰で経糸の張りを調整しますので、筬で大きく開くときには経糸が引かれますので緩めたりできますが、高機は緯糸を打ち込むときに十分打ち込めるだけの強さで経糸を張って、さらに綜絖で開いて力が掛かっても持つだけの糸の強さが必要です。
今でも結城紬は撚りの少ない弱い糸を経糸にも使うので、地機で織られています。
民芸の染織家だった田島隆夫さんは、高機でも織れる糸を布の風合いが良くなるから(糸に無理をさせないから)地機で織っていたと読んだことがあります。
結城の織元で機織り体験させてもらったことがありますが、地機で織るのはやはり重くてしんどいので、高機で織れるものは高機になって行ったんだと思います。
水玉柄の可愛い機織り人形の画像、と思っていたら埴輪とは!!!
人は気の遠くなるような昔から布を織ってきたんですね。
しかし、埴輪が作られていた時代から機織りをしていたとは凄いなあと改めて感心しました。
まずは、体調不良でお返事が遅れまして、
すみませんでした。
また詳細な情報をありがとうございます。
ただ、私は、この記事で詳しい織機の歴史のことを
お話しようとしたわけではなく、
「そうではないか」と想像していたことが、
埴輪の出現で「確認」されたことを言いたかったのです。
それと、細かく書くと、それこそさまざまなものの歴史、
ということについてになってしまうので、
大雑把に書きましたが、この記事では、蚕から何メートル取れたか、
ということが重要なのではなく、始まりのころの「植物性繊維」と「蚕からの生糸」の長さの違い、
そこから作るものの限界、を言いたかったわけです。
麻なども、結局はつなぐという技が生まれたから、
長い糸にできるようになったわけですから。
なんでも最初から全部思いつくわけではなく、
まずは「それ」をみつけ、そこからのたくさんの工夫が、
今の時代につながっているのだということ、
その始まりの「機」が、埴輪の出現で、
まちがいなかったんだって…ということを
ざっと見下ろした感じで言いたかったのです。
けっこうハデですよね。今よりモダンかも。
人間の知恵ってすごいですね。
なんでも最初に考えた人、はすごいなと思います。
「まんがはじめて物語」っていう番組ありましたね。
よく見ていましたわ。