写真は、もう一冊「群ようこさん」の本です。
前回ご紹介した「寄る年波は平泳ぎ」のエッセイの中では、ご自身の家族や親子関係を書いておられます。
それを読んでいると、この本は「ご自身の母と娘の関係」のことだとわかります。
タイトルが「母のこと」とありますが、なにしろ「まえがき」も「あとがき」もありません。
帯に「全ての母と娘に贈る<元娘・今母>の大波小波半生」とあります。2年前の作品。
こちらです。
母のはなし | |
クリエーター情報なし | |
集英社 |
ある家庭で、夫婦の4番目の子供(次女)として生まれたハツエという女の子が、
成人して、結婚して、子供を産んで、離婚して…そして認知症の高齢者になっている現在までのお話。
「ハツエ」が著者の母親で、その娘の「アカネ」、これが著者自身のことをうつしていると思われます。
なんといいますか、他の本のように、ほんわかとか、ほっこりとか、あははとか、
そういった読後感はありません。どちらかというとため息が出ます。
ご本人も公言しておられることですから書きますが、著者の父親という人が、まずダメ夫、ダメ父…
母親はそれに嫌気がさして、娘、つまり著者が子供のころに「この子がハタチになったら離婚する」と
心に決めて、あと14年、あと13年…と指折り数えていたそうです。
夫婦仲の悪い両親の姿を見ていた著者は、それがイヤで毎日時間ギリギリまで図書室で本をよんでいたそうな。
やがて母親は離婚して子供を引き取り、働き、自由に暮らし、解放されていったわけですが、
著者が作家としてデビューし、収入が増えるにしたがって、ものすごい浪費家になったのだそうです。
半端じゃありません、ついに一億円の家まで買わせたそうですから。
ホンモノお母様も、今認知症をわずらい、独身の弟さんと同居しておられるようです。
この本はフィクションも当然あるので、どこまでが「自分ち」レベルなのかわからないのですが、
最後に一度脳梗塞で倒れられてからの文章はすべて本当のこと…ではないかと思っています。
そして、結局「母と娘」は…という部分になると、なんだか群さんらしい歯切れのよさがないわけです。
まあ、内容のあれこれはともかく、私はこの本を読んで「母と娘」という関係について、
いろいろと思うところがありました。
「ははこ」と漢字で書くと「母子」ですが、時として「母娘」と書いて「ははこ」と読ませることがあります。
「父娘」だと「おやこ」と読ませます。どちらも慣習的な読み方ですが、イメージが違いますね。
「母娘」になると、父親と娘という関係より、なにかこう…良くも悪くも「摩擦」を感じます。
実際、母親と娘というのは、極端に仲がよかったり悪かったり…。
たとえば、女の子ばかり複数姉妹の母と娘の場合、姉妹二人の母との場合、
男兄弟ばかりの中の一人女の子の場合、そして私のように女の子の一人っ子の場合…。
そういった状況によっても変わるとは思うのですが、たまたまでしょうか、
私の周囲には「いいねぇ」という場合より「あらあら」と思うほうが割合が高い…。
いわく「母は私より姉(妹あるいは兄弟)のほうがかわいい」「母は私をうまなきゃよかったと思ってる」
「母じゃなくて姑みたい」「母みたいな生き方だけはしたくない」…等々。
たまたま今月のトップ記事にもかきましたが、私にとっての母も、ある種「うっとおしい存在」ではありました。
中学のころに「おかあさんって、私の前に大きな石があると、掘り起こしてぶん投げて、
水たまりがあると、こっちに水たまりがあるからそっちを歩けとか…ずっとそうやって、
私の行く道決めてるよね、それって子供が軟弱になると思わない?」といったことがあります。
母は「親が子供の心配するのが、何が悪い。幸せを思えばこそ教えたり守ったりしてんねん。
スネっかじりがえらそうなこと言うな」と怒りました。すでに父がなくなって母子家庭でしたから、
母は父の分も、あわせて厳しかったのだとは思うのですが…。
思えば、私が中学の時、母は40代初めです。私が40歳の時…と考えれば、
やはり今よりはまだまだ「修行がたらん」…若かったなぁと思います。
つまり当時の母も人生の半ばであったということ。親だってニンゲンです。
やることに間違いもあるし、年とともに考え方が変わることもあります。
あのころの母も、その年齢でそれなりに悩み、迷い、そんなことであったと思います。
干渉は、母が再婚し、私が20歳を過ぎてもまだ続きまして、私を鳥かごに入れておきたいままでした。
私の最初の結婚は、実は母からにげたかったのだ…と、後で思いました。
(母のせいにするつもりは毛頭ありません)
動機が不純な結婚など、うまくいくはずもありません。1年足らずで戻った私を、
両親は何も言わずに迎えてくれましたが、それを境に母の「言うこと」は、180度転換しました。
あのころはバツイチだの、シングルマザーなんて、影にも言われてない時代です。
私は子供はいませんでしたので、まったくのシングルになったわけですが、
母はやっと普通の暮らしに戻った私に
「アンタは出戻りやしな、このさき縁談きたかて『後妻』のクチしかあらへん。
それでも嫁けたらええけどな、もう男運はないかもしれへん。
アンタは兄弟もおらへんし、親はいつまでも生きてられへん。
明日から一人で生きなあかんようになっても、ちゃんとやっていかれるように、手に職つけや」。
これは、母もなにかしら思うところがあったのだと思います。
元々、厳しい人ではありましたが、厳しさとは別にすべてに干渉し、私をかごの中に入れようとする甘さは、
母の中の矛盾であったのでしょう。
それがなくなり、突き放し、知らん顔する…元々なんでも自分でできるようにしておけと言われていましたから、
突き放されても別にどうということもなく、さぁそんじゃなにやるかな…で、和文タイプを習ったわけです。
二度目の結婚はおかげさまで、今のところ別れ話もなく?のんきに主婦ができているわけで、
そういう意味では、母は安心してくれたと思いますが、どこまでいっても娘は娘。
私の進む道には、何も口はださなくなりましたが、今度は「暮らしのサポート」…。
何の気なしに「玄関マットだいぶ古くなって、みすぼらしくなったわ」なんて言おうものなら、
すぐに宅配便で「玄関マット」が届く…。今なら、母の干渉の形を変えた愛情だと、それはわかるのですが、
当時は「私、主婦歴○年だよ。もぅ押しつけないでよ。好みだってあるんだから」なんてね。
もちろんココロのうちだけで「直」では言いません。「ありがとぅ、たすかるわぁ」とやっていましたが。
今にして思えば、独り立ちできるようにという母の思いは、成功したと思いますが、
逆に私は、母に甘えることができない娘になりました。
もう50を過ぎてから、言われたことがあります。
「アンタはなんも心配のいらん子になったけど、甘えることを教えへんかった。堪忍してや」と。
実は、母がもし一緒にいたら「心配だーー」というであろうことは、てんこ盛りにたくさんありましたが、
ゼッタイ見せずにきましたからねぇ。
母の葬儀あたりで書いたブログにも、母が亡くなる日の夕方、最後の面会になった時に、
「おかあちゃん、ありがとう、私は大丈夫だから」と伝えたことを書きましたが、
あれは「あなたの子育てはまちがってなかったよ」とそういう思いを込めていました。
まだまだ、突っかかったり滑ったり(しかも何もない平らなところで?)やっている私ですが、
あの母に育ててもらったんだから、まだまだやれる、…と、
それは自分を叱咤激励する思いで考えています。
群さんのお母様が、娘を頼って何百万もの買い物をした…というのを読んで、
確かにそりゃ困ったことだわねぇと思いましたが、夫との確執が、娘の心に影を落とし、
独立独歩、結婚もせず、引っ越し先も教えない娘になたったとき、お母様は「こっちをむいてほしい」、
そんな気持ちだったのではないでしょうか。確かにどこかで間違ったかもしれませんが、
つらい暮らしの中で、子供が大きくなるまでは…と、頑張ったことは嘘ではないわけですから。
群さんは、未婚のままですし、お子さんもいません。
子を持つ親が感じる様々なこと、それは想像するしかないと思うのですが、
時々自分のことを忘れるようになった母親に、ひとつ垣根を越えた思いで接しておられる…
あの歯切れの悪さは、それではないかと、そんな風に思っています。
レビューでは「いわれるままに、買い与えなかったほうがよかったのでは」というような記述もありました。
単純に考えれば、当然の意見です。
でも、私は、本全体に「まったくとんでもない親…」という雰囲気を感じつつも、
その根底に「やっぱり『母娘』があるんだな」と、それを思いました。
憎みつつ愛し、愛しつつ憎み…なんて、昼ドラ、メロドラのサブ・タイトルみたいですが、
どこまでいっても「親は親」「子は子」…100あれば100、1000あれば1000あるのが親子の姿。
さてあなたの「母娘」関係は、いかがでしょうか。
両親共に長子(母には養女の姉がいましたが)、すぐ下の妹は年子、母がフルタイムで働いていましたから、骨の髄まで「お姉ちゃん根性」染み付いてます(笑)
私も甘えるのはできませんねぇ…幼少時の思い出に、休みの日の買い物にいつも妹がついて行くので、ある時母が「いつも〇(私のこと)が留守番だから、今日は☆(妹)が留守番を」と言ったら、妹が嫌がって大泣きし、仕方なく私が自分から「私が留守番するから」と言ったことがあります。行きたかったんですけどねぇ。
ある時期から、「親は親。好き嫌いとは別物」と思うようになりました。
ちょうど、買い物中毒真っ只中の時期の対談で、群さんのお母さんは30分で呉服を500万買ったとか、西原さんのお母さんも安い数千円の帽子や上着を何十も買うとか、何となく似通った状況のお二人の対談は、ちょっと桁外れで恐ろしいながらものすごくおもしろくて、時々読み返したくなります。
ものすごく文句は言っているんだけど、切り捨てきれない感じ、お母様が痴呆になってもやっぱりそういう感じなのかなあとか、思います。
うちはまだ、祖母がほぼ健在(かなりのまだら呆け)ですが、母と祖母の立場が逆転してきた頃から、私も母に対する感覚が変わってきたように思います。
ちょっと語弊はありますが、「親」から「家族」にちょっとシフトしたというか、そんな感じです。
母はさみしく辛い思いをしたんだと思います。
だから自分と同じようなおもいはさせたくないと
思っていたのか身を粉にして私たちを育てて
くれました。
一代、もったいないと贅沢もせずつつましく暮らして
いた母を思い出す度、もっと好きな事をしてほしかった
と今でも胸が痛みます。
何をとっても母には叶わない私は、上の子特有の甘え方を知らない子。
「あんたはしっかりしてるから」と言われ続けてきました。
もっと甘えれば良かったな、というのが正直な気持ちです。
母は「してやりたい気持ち」をたくさん持った人ですから。
難しい病を得て車いすの生活になり、母は「何も出来ない」が口癖になりました。
残りの時間は自分のための人生を送って欲しかったけれど、それは叶いそうにありません。
何も出来ず、傍にも居ない自分が苦しいです。
とりとめもないコメントですみません。
甘えベタというのは、損かもしれませんが、
我慢強くはなりますよね。
子供の域を出始めると「親も人間」とか
「母親も女」とか、そんな風に思えるようになります。
それがイヤだと思う時期もありましたが、
年を重ねると、それも越えますね。
私たちの年代は、まだ親にたいして「リスペクト」という感触も残っていますから、
かえって大人になるにつれての葛藤があるのかもしれません。
母が寝付いてからは、やはり「食べなあかんよ」とか「センセの言うこときかな」とか、
親子逆転でしたね。
なくなると、なにもかもいとおしいものです。
母親が病気だと、子供はつらいですよね。
母の年代は、それでなくとも時代的に、
とにかくわっせわっせと働いた時代です。
年を取ったら、ゆったりしてほしい…と思っても、
身にしみついた働き癖?は、消えなかったのでしょうね。
ほんとに「墓に布団は着せられず」とは、よく言ったものです。
私も、結局「母にはかなわない」と、追いつかないまま、
逝かれてしまいました。
母もよく「もう何もしてやれへん」と言いました。
何もしなくても元気でいてくれればいいと、
子供としてはそうなのですが、親の立場では、
してやりたいばっかりで、めんどうかけたくないばっかりで、
切ないものですね。
そばにいられなくても、さくら様がお元気なら、それでお母様は
満足だと思います。
お大事になさってください。
義母には水くさい。と言われました。
小さい時からしっかりしていると言われ、自分でも気が付かないうちにそれがしみついてしまったのかなあと思います。
だからでしょうか、人を甘えさせるのも下手なような気がします。
私は一人っ子なのに、下がいるでしょといわれました。
長女って損??結局「面倒見る側」ですものね。
私も、甘えベタですから、甘えた人みると、
「自分でやれよ」みたいな?そういうことありますわ。