私の実父は、私がもうすこしで12歳、というときに病死しています。
その父の手帖です。父は日記などもよく書いていましたが、これは仕事用のメモのような手帖。
1959年、昭和34年です。
ほとんどが誰と会うとか、部品がどうのいつまでに納品とか、そんな話ばかり。
でもところどころに私的な記述もあります。父の字はたいへん達筆すぎて読みにくいのですが、
苦労してたどってみました。私が9歳のとき1959年8月3日の記述です。
「とんぼを連れて間門に海水浴に行く。大和を動かす。スピード遅い。大型の馬力のあるものを作ろう」
まず、間門というのは「まかど」と読みます。横浜のかたならご存知かと思いますが、
三渓園の前アタリのこと、本牧の近くです。昔は三渓園の向こう側はすべて遠浅の海、
間門といえば、海水浴や潮干狩りには最適のところでした。今はすっかり埋め立てられちゃいました。
次の「大和」…そうです「戦艦大和」です。
父は海軍で働いていまして、日本が負けることも察知し、それでも仕事をしなければならず…
という経験をしていますから、戦争はよくないことと、と言っていました。
でも、道具…といいますか、ひとつの造形物として「戦艦」は、とても美しいものだとも言っていました。
あのころはまだプラモデルはなく、すべて「木工」。そのキットを父はよく作っていました。
「大和」は確か、50センチくらいあったのではないかと思います。
その「大和」には、小さなモーターがついていまして、実際に動かすことができました。
このときのこと、ぼんやりと覚えています。いかに遠浅とはいえ、波はあります。
大和は大きな波にふわんふわんと揺れて、それでもちゃんと「発進」しました。
周りにいた男の子たちが、泳ぐのをやめてさわいでいたことも覚えています。
もっと馬力のあるものを…と書いてありますが、実際にはこれっきりになりました。
先日は、親戚の住所確認に、母の手帖を父が持ってきました。
母も日記はこまめにつけていましたが、その手帖は「手芸」やちょっとしたアイデアなど、何かのメモがほとんど。
その合間にちょこっと日記風の記述がありました。
母が認知症と診断されたころのあるページのはしっこに、日付入りで小さな字が並んでいました。
「こんなになってしまって情けない。なんでこんなことに…。
じーちゃんは貧乏くじひいて、かわいそうに。とんぼにもじーちゃんにも迷惑掛けたくないのに」とありました。
私もそのころが一番気持ち的にしんどかったことを思い出しました。
「痴呆になってゆく」という病気と、まだほとんど正常なアタマで対峙しなければならないのですから。
そばにいるものとしては、励ましようも慰めようもないのです。
努めて「そんなことたいしたことじゃない」というより、ありませんでした。
正面から受け止めることができるのだろうかと、ずっと思っていました。
本人が前向きならいいのですが、基本的にはネガティブな人でしたから、
その苛立ちが、八つ当たりとなって出てくるのが悲しかったし、
それを全部受け止めて、決して言葉も荒げなかった父には、感謝の言葉もありませんでした。
手帖を返すときに「ここ、読んだ?」と聞いたら、父はただのメモ帳だと思っていて読んでいませんでした。
読んで「こんなこと思ってたんだな。きにしなくてもよかったのに」と、ウルウルしてました。
「素直じゃなかったからねぇ、ほんとはありがととごめんねの毎日だったと思う」と言ったら、
「んなことわかってるよ、40年も一緒にいたんだぞ」と笑ってました。
二冊の手帖は、それぞれ父と私の宝物になりました。
私が書いたものは…誰かの思い出になるのかな…あ…日記もメモも書いとらんわ…。わーーーん!
まさかこんなに早くに別れるとは…と
父も思っていたと思います。
いなくなって寂しかったのか、
あまり覚えていないのです。
大人になってからの方が、
父が生きていたら、こんなときなんていうだろう、
なんて考えますね。
子供の目線でしたか見られなかったですから、
大人の会話をしてみたかったと思います。
親は長生きしなきゃですね。
たとえ手芸のメモでも、どんなこと考えながら
書いてたのかなとか、そのときのその人の時間が
見えるような気がします。
母は膨大な量の日記を残していますから、
落ち着いたら読んでみようと思っています。
手書きの字って、いいもんですね。
私も手帖は「予定」ばっかり。
しかもあまりにも字が汚すぎて、
自分で読めなかったりしています。
たとえいいこと書いても、誰も読めなかったりして…。
日記をずっとつけてる両親はすごいと思っています。
大きな造船会社に勤めて、ラグビーをやっていた人で体には自信があった様です。
結核で家内が小学生の低学年だった頃に死んでいます。
残した日記には子供の事が一杯書かれていたそうです。
親は長く生きて子供の面倒を見る責任があるのに、早く死んでしまった以上あの世から子供の手助けをするのは当たり前と強がりを言います。
それでも時に、寂しかった子供の頃を思い出して父恋しかったであろう顔を覗かせます。
私自身、恋しがられる父親であるか自信はありませんが、たまには父の顔が浮かぶ今日この頃です。
私も主人の手帳を持っています。
亡くなった後、会社の机を整理して、
会社の方が届けてくださった函の
なかに入っていたものです。
仕事の予定や出張、会議のことなど
きれいな字を書く人でしたから、
読みやすく、贈り物のように感じて
大切に他の書類とともに革の四角い
鞄に大切にとってあります。
明日のお誕生日を前にお墓まいりに
行ってきました。
そう、明日は鞄を開けて手帳を繰って
みましょうか...。
メモぐらいでその時々の心情はほとんど
書く事はありません。
後々見られるかもと思うと身構えて書く
かもしれないし・・・
そんな事を思いながらも、後日に日記を
垣間見てあの時そんな風に思っていてくれ
たんだと分かればやっぱり泣き出して
しまうかもしれません。