とにかくなんだかあわただしく、ヤフオクもショップもゆっくり覗く時間がありませんでしたが、
ひっさしぶりにショップをちらりと覗いたら…出会ってしまいました。
きっと…あたしに会えるのを待ってたはずぅ…と、勝手に思っています。
久しぶりの中でもまた久しぶりの「赤穂浪士もの」、春先でしたか…にも1枚あったのですが、
私なりのコダワリで、カオがねぇぇぇと、パスしてました。
この場面は、すでに本懐遂げて…のあとだと思うのですが…。
元々、赤穂浪士、あるいは忠臣蔵、と呼ばれて広く世間に流布されたのは、「お芝居の筋書き」です。
実際の記録としては「元禄赤穂事件」、また、なにしろ「とんでもないこと」だったので、
幕府は庶民に対して、さわぎたてたりすることを禁じました。
なので…いよいよ「芝居の筋立て」として世に出たのは、事件から45年も経ってから…。
おそらく、当時の関係者は、みんなこの世にいなくなっていたことでしょう。
そんなわけで、実は違う…ということがたくさんあります。
今でも刃傷事件の理由は「なんで浅野さんキレちゃったの?」と、はっきりせず、
芝居では耐え忍ぶ浅野さんも、ほんとは癇癪持ちだったの、今でいう「キレるひと」だったのと、
あれこれ「分析」されています。
仇討をした理由も、単に「主君のかたき討ち」ではなく、幕府に対するものだとか…。
残っている記録は、終わった後のこと。
芝居の筋立てでは吉良さんはかわいそうに、ずいぶんな言われようですが、実は名君だった…とか、
そんな話もいろいろあります。元々足利の系統の名門で、家康とは親族であった祖先のおかげで
「高家」という役職をもらいました。高家というのは、将軍家が行う行事、典礼、
特に朝廷との関連での礼儀作法や、準備等の采配を振るったり、教授したりする役柄。
残念ながら、吉良家は赤穂事件で吉良吉央さんが首をとられて、家は絶えてしまいました。
さて、ではこの羽裏の柄、もう一度出します。
ウソは「装束」、お芝居の影響で、四十七士は、映像化されると常に「おソロ」の衣装ですが、
実際には「火事場衣装」、つまり「火事装束」であったと言われています。
江戸は火事が多いところでしたから、「火消」という制度は早くから作られましたが、
実は「大事なのは武士とお城とお屋敷よー」でしたので、町場の火事は二の次三の次。
いろんな火消制度が作られては消え、作られては消え…で、享保になってようやく整ってきました。
武士の火事装束は、例えば身分の高い大名などは、家臣にもハデな火事装束を着せたりしましたが、
下級武士などは、要は動きやすく、アタマを守る装束。
なので下はたっつけ袴、ふくらはぎの部分が細くなっていて、穿いた後、更にふくらはぎ部分を紐で縛ります。
上の写真では、袴部分と、すねのところが同じ色柄ではありませんが、
おそらく「すね当て」をつけていたのでしょう。彼らにとって、火事装束は、現地へ着くまでは目くらまし、
首尾よく屋敷内に入れば、そこはいわば「戦場(いくさば)」ですから、戦装束。
袖がジャマにならない小袖にたすき掛け、中にはきっと鎖帷子など着用していたものと思います。
兜は、元々実践には重いものですし、かぶって走ってたら目立ちますしね、
「鎖頭巾(くさりで編んだ目出し帽みたいなもの)」をかぶるとか、鉢金(はちがね)」という
鉢巻きの額部分に金属を入れたものなどを使用したと言われています。
夜の夜中に、何人もの人間が移動する…というのは、彼の時代には特にめだつことでしたから、
火事装束なら、走っていても不審には思われにくい…けど目立ちたくないのでジミーに…ですね。
そんなこんなで、実は「ウソがたくさんの絵」ではありますが、
やっぱり赤穂ものは、お芝居の図柄優先で…気に入ってます。
ほらぁ「いいおかお」でしょぉ?
本体は、薄い(あまり上質でない)羽二重で、羽裏は繰り回しですね。
大きな人だったらしく、袖つけに「継ぎ布」がしてありましたが、これが木綿で、
すっかり茶色に変色しておりました。紋は「貼り紋」、違い鷹の羽、ですから、
浅野家の家紋です。なのでこの羽裏にしたのかもですね。
ちなみに「貼り紋」、すっかり乾燥しておりまして、ふちがささくれ立ち、さわっただけでべりっと破れて剥げました。
はぎ取れたものの裏を見たら、元の紋は珍しい「三つ銀杏」でした。
お金がなかったのか、お金はあってもモノがなかったのかわかりませんが、
ナントカ形にした…という感じの紋付…です。
表地はもう使えませんが、羽裏は例によって「大事に保管」します。
久しぶりに素敵な羽裏を拝見しました。
場面としても、本懐遂げてというところは珍しいのではないでしょうか?
こうしたものを手にすると嬉しくなってしまいますね~
最近はなかなか出会えませんねぇ。
できることならストーリーに沿って、
揃えて見たいものですねぇ。