中学生の頃『巨人の星』で、「獅子はわが子を千尋の谷に突き落とす。」と言う例え話を星一徹に語らせていたのを覚えています。
その後、スポーツ根性ものと言われる漫画には、必ずと言って良いほど引用された逸話です。
「獅子はわが子を千尋の谷に突き落とす。」は、スパルタ式教育とは何かを教えるために引用されていたと思います。
五十歳を過ぎて、この話の原話に巡り合うことができました。
それが、『太平記』桜井の別れでした。
ざっとした、歴史的な経緯は以下の通りです。
1331年 楠正成(まさしげ)は、後醍醐天皇の挙兵に呼応して、鎌倉幕府の打倒に貢献しました。
1334年には、建武の新政が敷かれたが、翌年には足利尊氏が離反しました。
1335年 楠正成、新田義貞らの奮戦により、尊氏を九州へ追いやりました。
しかし、尊氏は、翌年には体制を立て直し京都へと迫りました。
楠正成は、形勢不利と判断し、後醍醐天皇へ和睦や比叡山へ一旦立ち退くことを提案したが聞き入れられなかった。
更に、朝廷の重臣より、必敗と分かっている戦を行うよう命じられた。
正成は、死を覚悟して決戦に挑むことにしました。世に名高い「湊川の戦い」です。
楠正成は、死を覚悟して決戦に挑む戦いの出陣にあたり、息子である正行(まさつら)に今生の別れを告げました。
それが、「獅子はわが子を千尋の谷に突き落とすという。私はお前に試練を与えるが、試練に耐えて主(あるじ)にお仕えしなさい。」です。
星一徹がたとえ話として引用した内容とは、似て非なるものでした。
正成は、自分が死んでしまうことが「わが子を千尋の谷に突き落とす」ことだと言っているのです。
私は、この桜井の別れを読んだ時に喉に引っかかるものを感じました。
それは、この出陣は武将として自分が判断したことではなく、殿上人から「朝廷の名誉のために、死んで来い」に従ったものだったかたです。
どうも納得できなかった。しかし、この疑問は、私が武士たるものを理解していなかったことが原因であることに気づきました。
武士のアイデンティティーとは何か、を考えながら貴方も太平記を読んでみてください。
追伸
私は、『新潮日本古典集成』で読んだのですが、注に、この逸話の出典は不明と書かれていました。
ということは、この逸話は、日本だけで(多分、元の逸話の意味が変わった形で)語り継がれているもののようです。
その後、スポーツ根性ものと言われる漫画には、必ずと言って良いほど引用された逸話です。
「獅子はわが子を千尋の谷に突き落とす。」は、スパルタ式教育とは何かを教えるために引用されていたと思います。
五十歳を過ぎて、この話の原話に巡り合うことができました。
それが、『太平記』桜井の別れでした。
ざっとした、歴史的な経緯は以下の通りです。
1331年 楠正成(まさしげ)は、後醍醐天皇の挙兵に呼応して、鎌倉幕府の打倒に貢献しました。
1334年には、建武の新政が敷かれたが、翌年には足利尊氏が離反しました。
1335年 楠正成、新田義貞らの奮戦により、尊氏を九州へ追いやりました。
しかし、尊氏は、翌年には体制を立て直し京都へと迫りました。
楠正成は、形勢不利と判断し、後醍醐天皇へ和睦や比叡山へ一旦立ち退くことを提案したが聞き入れられなかった。
更に、朝廷の重臣より、必敗と分かっている戦を行うよう命じられた。
正成は、死を覚悟して決戦に挑むことにしました。世に名高い「湊川の戦い」です。
楠正成は、死を覚悟して決戦に挑む戦いの出陣にあたり、息子である正行(まさつら)に今生の別れを告げました。
それが、「獅子はわが子を千尋の谷に突き落とすという。私はお前に試練を与えるが、試練に耐えて主(あるじ)にお仕えしなさい。」です。
星一徹がたとえ話として引用した内容とは、似て非なるものでした。
正成は、自分が死んでしまうことが「わが子を千尋の谷に突き落とす」ことだと言っているのです。
私は、この桜井の別れを読んだ時に喉に引っかかるものを感じました。
それは、この出陣は武将として自分が判断したことではなく、殿上人から「朝廷の名誉のために、死んで来い」に従ったものだったかたです。
どうも納得できなかった。しかし、この疑問は、私が武士たるものを理解していなかったことが原因であることに気づきました。
武士のアイデンティティーとは何か、を考えながら貴方も太平記を読んでみてください。
追伸
私は、『新潮日本古典集成』で読んだのですが、注に、この逸話の出典は不明と書かれていました。
ということは、この逸話は、日本だけで(多分、元の逸話の意味が変わった形で)語り継がれているもののようです。