呆れたる母の言葉に
気がつけば
茶碗(ちゃわん)を箸(はし)もて敲(たた)きてありき 石川 啄木(いしかわ たくぼく)
この歌は私でなければ、解釈できないと思う。啄木すらこの歌の意味するところが分からないからだ。
脳神経外科医であるワイルダー・ペンフィールド博士の『脳と心の神秘』(私が若い時に読んだ時は、『脳と心の正体』というタイトルだった。)に、追体験とはなにかが記載されている。
ペンフィールド博士は、てんかん治療のために行われる回頭手術の際に、脳の特定部位を電極で刺激すると「鮮明な記憶が蘇る」ことを発見した。その蘇り方は、「過去を思い出す」ということではなくて、「過去にあったことを今まさに体験している」という感覚だ。
私は、この追体験は、電極で脳を刺激せずとも起きることを知っている。
私自身にその体験があるからだ。
その体験がどのようなものであるかを知りたければ、三島由紀夫の『仮面の告白』の冒頭を読んでみればよい。但し、私は、三島の言う生まれた時の記憶は、たぶん生後三ケ月から九ケ月頃の体験だろうと思っているが。
その昔揺籃(ゆりかご)に寝て
あまたたび夢にみし人か
切になつかし
「一握の砂」の中の別の歌だが、これには、幼児期の記憶が述べられている。「夢にみし人か」と、「追体験」という現象を知らないために「夢」の語を持ちているが、睡眠中に幼児期の「追体験」を繰り返したということだ。
しかし、啄木は自分の見たものが何であるか分からないまま、素直に歌にした。これは、勇気のいることだ。
歌の意味を問われてみても分からずと答えながらに見たものを詠む 風天
若い頃、この追体験を理解した時に、このことは、『パブロフの犬』のように一般常識になると思っていたのだが、一向に世間全体に知られていない。こんな重要なことが!!
少し古い話だが、確か、インフルエンザの治療薬である「タミフル」を投与された人が、幸せそうな顔で、ビルから飛び降りたというニュースを見た。
私は、この時に、この不幸は追体験に因るものではないかと直感した。しかし、私はただの体験者であり、研究者ではない。だから、このことをどう伝えて良いのか分からない。
この追体験についての理解が、広まることを祈ってやまない。