夏草に汽罐車の車輪来て止まる 山口 誓子(やまぐち せいし)
この句は、写生の句だという。「汽罐車が止まった。」と言うのでなくて、「汽罐車の車輪」と言うことによって、車輪が大写しになっている。だが、それだけだろうか?
正岡子規の「十たび歌よみに与うる書」に「新奇なることを詠めというと、汽車、鉄道などといういわゆる文明の器械を持ち出す人あれど大いに量見が間違いおり候。文明の器械は多く無風流なるものにて歌に入りがたく候えどももしこれを詠まんとならば他に趣味あることを配合するのほかこれなく候。それを何の配合物もなく「レールの上に風が吹く」などとやられては殺風景の極に候。せめてはレールの傍らに菫がさいているとか、または汽車の過ぎた後で罌粟(けし)が散るとか薄(すすき)がそよぐとかいうように他物を配合すればいくらか見よくなるべく候。」という記述がある。
誓子がこの文章を読んでいないはずがない。とすれば、この句は、子規に対して「どうですか、夏草と機関車の車輪を取り合わせてみました。」という挨拶の句という風にも読めなくもない。
どうでしょうか。(但し、句集全体からは、そのような匂いは感じない。)