風天道人の詩歌、歴史を酒の肴に

短歌や俳句の鑑賞を楽しみ、歴史上のエピソード等を楽しみます。
比べて面白い 比べて響き合う 比べて新しい発見がある

今昔物語を読んで、お話を書きました。(1/2)

2013年07月15日 | 日記
日本語も碌に分からないけれど、今昔物語を読んで面白かった話を適当に訳してみました。
一部は改ざんしてます。→原文と読み比べてみて下さい。

近江国安義橋なる鬼、人を喰らう話

今は昔、名前は分からないのだが、近江守を勤めた男が、任国にいた間のことだ。
瀬田の国府の館に若い男女が大勢集まっていた。楽しげに世間話をしていたり、囲碁や将棋に興じたりしていた。
そして酒盛りとなった。飲み食いの間に色々な話がでたが、「この国に安義橋という橋があります。昔は人が渡っていたのですが、最近になって渡った人が誰も戻って来なくなったので、今では誰も渡ろうとしませんよ。」どよめきが起こり、怖がる女どもの声も聞こえた。
すると、お調子者らしい一人がどうもその話を信じないような素振りで、「俺だったら、その橋を渡ってみせるよ。だけど、このお屋敷一番の馬をお借りできればって条件だけどね。そうすりゃあ、どんな化け物が出ても逃げてこられるって。」と言った。
そうすると、その場にいた全員が口を揃えて囃し立てた。
ある男が、「そりゃおもしれえ。安義橋を通って真っ直ぐに行かれれば、東山道へ抜けるのが楽にならあ。是非とも、試して貰おうじゃないか。まあ、お前さんに肝っ玉があればってことだけどね。」とけしかけた。
言われた方も売り言葉に買い言葉、自分の勇気が十分にあること、但し、お屋敷の馬が借りられることを付け足すことは忘れなかった。
近江守がこのやり取りを聞いていて「詰まらない事を言い争っていてもしょうがない。馬ならば、すぐにでも与えよう。どうだ、やってみるか。」と言った。
「いえ、この場の馬鹿馬鹿しい座興でございます。このようなことで、駿馬を頂戴しますことは、気が引けてなりませぬ。」
「なあんだ、結局口先だけかよ。」
「男が一旦口にしたことは実行しなさい。早くしないと、日が暮れちまうぞ。」と近江守の側の者が言った。
近江守は、鞍を乗せた馬が引き出させ、男に手渡した。男はとんでもないことになったものだと思ったが、自分が言い出したことなのだからやらないわけにはいかないと観念した。
男は、鬼と遭遇した時の対処方法を思案し、馬の尻や尾に油を多く塗った。
腹帯を強く結び、鞭手(鞭についている紐の輪)を手首に通した。見れば、この男は馬に乗りなれていて、装束も乗馬姿も満更ではなかった。
男は近江守に一礼すると、軽やかに走り出した。
そして、安義橋のたもとに到着した。
橋に着いた途端に、今まで静まっていた恐怖心が俄かに沸き上がり気が狂いそうになったが、今更引き返す訳にもいかない。見れば、日も山の葉の近くまで落ちてきている。
心細い。だが、心を決して慎重に橋を渡り始めた。
ここは人気もなく、人家も見えない。やりきれない心持で進んで行くと、橋の半ばあたりに、遠くからでは気がつかなかったが、人の姿が見えた。
これが鬼なのだろうかと半信半疑になると、恐怖心が募ってきた。
佇む人は、高貴な女性が纏う濃紫の単(ひとえ)に、紅色の長めの袴姿だった。そして、恥らっているように袖で口元を隠し、なやましく切なげに男を見つめた。
女は自分からここに来たのではなく、誰かに連れてこられ、置き去りにされたかのように、橋の高欄にもたれかかっていたが、人を見かけて嬉しげな様子をしているようにも見えた。
男はこれを見て綺麗な女性に心を奪われてしまい、馬に乗せて連れて行きたいと思った。
だが、ここにこんな女性がいることがおかしいという疑念が沸いた。
(こんなところにこんな綺麗な女性がいることがおかしい。きっと、こいつは鬼なんだ。)と思うと、一気に馬に鞭をあてると、目を塞ぎ一気にそこを通り抜けようとした。
「や、貴方様。どうしてお助けくださらないのですか。私は悪人に奪い去られ、こんなところに置き去りにされたのです。お願いです。人里までで結構ですので、どうか私をお連れ下さい。」
と言う言葉が聞こえてきた。しかし訴えている話とは裏腹に、その声色からは身の毛のよだつものが感じられたので、更に鞭をあて、飛ぶような勢いで馬を走らせた。
女は、「なんとういつれない人だ。」と言ったが、その声は地面に響き渡るような声だった。
その女の格好をした鬼は、立ち上がると物凄い勢いで追いすがってきた。
男は、やはりそうだったかと思い、観音様、どうかお助けくださいと念じて、更に一鞭を加えた。
鬼は走りかかって、馬の尻を掴もうとしたが、馬の尻に油を塗っておいたので、掴むことができない。
男は、鬼の気配が薄らいだので、馬を走らせながら振り向いた。顔は真っ赤で、円座(丸くて大きな敷物)のように大きく、目はひとつしかなかった。身の丈は九尺(三メートル近く)もあり、手の指は三本、爪は、五寸(十五センチ)ほどで、刀のように鋭利だった。皮膚の色は黒味掛かった緑青色で、目の色は鈍い琥珀色、髪の毛は蓬のようにぼうぼうと乱れていた。
男は、おぞましい鬼の姿を見て、生きた心地がしなかった。ただ、観音様を念じ続け、やっと人里にたどり着くことができた。
その時、遠くから「今日のところはひとまず取り逃がしてやるが、後日、必ず喰らいついてやるから覚悟しておけ。」という声が響いてきたが、鬼は掻き消えるようにして、姿を消した。

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続きは、また明日。では。

我が身をば惜しみはせねど幼な子を見守る魂(たま)は留めおかまし

2013年07月14日 | 日記
中学生の頃『巨人の星』で、「獅子はわが子を千尋の谷に突き落とす。」と言う例え話を星一徹に語らせていたのを覚えています。
その後、スポーツ根性ものと言われる漫画には、必ずと言って良いほど引用された逸話です。
「獅子はわが子を千尋の谷に突き落とす。」は、スパルタ式教育とは何かを教えるために引用されていたと思います。
五十歳を過ぎて、この話の原話に巡り合うことができました。
それが、『太平記』桜井の別れでした。


ざっとした、歴史的な経緯は以下の通りです。
1331年 楠正成(まさしげ)は、後醍醐天皇の挙兵に呼応して、鎌倉幕府の打倒に貢献しました。
1334年には、建武の新政が敷かれたが、翌年には足利尊氏が離反しました。
1335年 楠正成、新田義貞らの奮戦により、尊氏を九州へ追いやりました。
しかし、尊氏は、翌年には体制を立て直し京都へと迫りました。
楠正成は、形勢不利と判断し、後醍醐天皇へ和睦や比叡山へ一旦立ち退くことを提案したが聞き入れられなかった。
更に、朝廷の重臣より、必敗と分かっている戦を行うよう命じられた。
正成は、死を覚悟して決戦に挑むことにしました。世に名高い「湊川の戦い」です。

楠正成は、死を覚悟して決戦に挑む戦いの出陣にあたり、息子である正行(まさつら)に今生の別れを告げました。
それが、「獅子はわが子を千尋の谷に突き落とすという。私はお前に試練を与えるが、試練に耐えて主(あるじ)にお仕えしなさい。」です。
星一徹がたとえ話として引用した内容とは、似て非なるものでした。
正成は、自分が死んでしまうことが「わが子を千尋の谷に突き落とす」ことだと言っているのです。
私は、この桜井の別れを読んだ時に喉に引っかかるものを感じました。
それは、この出陣は武将として自分が判断したことではなく、殿上人から「朝廷の名誉のために、死んで来い」に従ったものだったかたです。
どうも納得できなかった。しかし、この疑問は、私が武士たるものを理解していなかったことが原因であることに気づきました。
武士のアイデンティティーとは何か、を考えながら貴方も太平記を読んでみてください。

追伸
私は、『新潮日本古典集成』で読んだのですが、注に、この逸話の出典は不明と書かれていました。
ということは、この逸話は、日本だけで(多分、元の逸話の意味が変わった形で)語り継がれているもののようです。

記憶って何?ぜんぜん覚えていないんだけれど

2013年07月13日 | 日記
告白します。
今日は、昼間から酒を飲んでしまい、ブログを更新できない状況です。
はじめたばかりのブログで、しかも週末更新と言っておきながら、これはまずいよなと
思って、過去に書いたものを載せることにしました。
でも、全然覚えてないんです。以下の本を読んだことも、その感想を書いたことも。
記憶力がなくなるってことは恐いなあと・・・・
ほんとに自分が書いたのかなあ。
しかの偉そうにしてます。申し訳ありませんが、そのまま載せます。
ひょっとすると、誰かの感想を転記したしただけなのかもしれません。(汗


日本の200年 アンドルー・ゴードン みすず書房

多少言葉を改めて表現すると1865年、小栗忠順は、フランス公使レオン・ロシェからの助言と財政的援助を受け、軍隊を西洋式に改造する事業に着手した。
また、藩を完全に撤廃して中央政府を設立し、その下に権力を集中することを構想した。
徳川慶喜は、小栗、ロシェとともに幕府を西洋式の中央政府への再編に取り組むことを決意した。
仮に幕府が崩壊せずにもっと「生き長らえた」場合は、明治新政府とさほど変わらない政治体制へとみずから転換することができたのではないかと想像される。

この本は、廃藩置県までは、日本全体を第三者として公平な立場から描いている。
ところが、明治新政府の発足以降は、反政府運動的、在野的、民衆運動的な立場からの視点で
書いているように感じられる。
明治維新の強制的な政策、そこから生じた歪みは、在野勢力の反抗等は理解できるのだが、どうして日本が欧米列強と並び立つことができたのか、日露戦争で辛うじて勝利することができたのかが理解できる情報が書かれていない。
ここに書かれた事実が明治維新が引き起こした状況の核であるならば、日本は日清戦争に勝利するどころか明治政府が崩壊しなかったことが不思議に思われる内容だ。

おもしろうてやがて悲しき寿限無かな

2013年07月06日 | 日記
芭蕉の《おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな》のパロディーです。
川柳ですが、どうでしょう。
子供の頃、TVでですが、寿限無を聞いて、大笑いしたのを覚えています。
死んでしまうってどういうことなの。
子供の時には、(言葉では表せませんでしたが)、話の面白さと結末の悲しさに心のギャップを感じたように記憶しています。
いっぱい飲みながら、良質のお話をききたいものです。

養生訓チャチャ入れながら拾い読み

2013年07月05日 | 日記
日本の名著 『貝原益軒』 松田 道雄訳 より
養生の術は、努力すべきことをよく努力して、体を動かし、気を循環させるのをよしとする。

三欲とは、飲食・好色・睡眠の欲である。飲食と色欲を慎むことは、人は知っている。
さだ、睡眠の欲をこらえて、寝るのを少なくすることが養生の道であることを知らない人がいる。・・・睡眠を少なくしようと努力して、習慣になると自然に睡眠が少なくなる。
*寝るの好きだからなあ・・・

夜に書物を読んだり、人と談話するのは三更(午後十一時から午前零時の間)を限りにしなければならぬ。深更(午前零時以降)まで眠らないでいると精神が鎮まらない。
*午後十一時に寝るでOKってこと。
*蝋燭の明かりで十一時過ぎまで読書って・・・眼科医にあきれられるね。


五更(午前四時)に起きて座り、一方の手で足の五指を握り、他方の手で足の裏をながく撫でさするのがよい。こうして足の裏が熱くなったら、両手を使って両足の指を動かすがよい。
*自己マッサージの薦め。・・・前の話と合わせると、睡眠は、四、五時間ってこと。

夜半に寝て、昼間は寝ず、いつも業務にはげんで怠らず、睡眠を少なくし、精神をすがすがしくし、腹の中をきれいにする。
*これが養生って、規則正しい生活をしましょうってことか。

酒色・色欲など、ちょっとの間、少しの欲をこらえないため大病となり、一生の不幸となる。
*そりゃあ、私は不幸せ者です。

うまい酒を飲みすぎ、色を好み、からだを楽にして、怠けて寝ているのが好きだというのは、みな自分をかわいがりすぎるのだから、かえってからだの害になる。また、病気でもないのに補薬(精力を補うための薬)むやみにたくさんのんで病気になるのも、自分をかわいがりすぎるのである。
*健康補助食品メーカーが聞いたら、怒るよねえ。

ひとり家にいて、静かに日を送り、古書を読み、古人の詩を吟じ、香をたき、古い名筆をうつした折本をもてあそび、山水を眺め、月花を観賞し、草木を愛し、四季のうつりかわりを楽しみ、酒はほろ酔い加減に飲み、庭の畑にできた野菜を膳にのぼすのも、みな心を楽しませ気を養う手段である。
貧賤の人もこの楽しみならいつでも手に入れやすい。
*江戸時代って、すご~い。貧民のパラダイスじゃあないか。

呼吸というのは人の鼻からいつも出入りする息のことである。呼は出る息で、からだの中の気を吐くのである。吸は入る息で外気を吸うのである。呼吸は人の生気である。呼吸がなくなると死ぬ。
*知ってた。

すべて食事はあっさりしたものを好むがよい。・・・吸物は一品でよい。肉も一品でよい。副食は一、二品にとどめたほうがよい。肉を二種類かさねて食べてはいけない。また、肉をたくさん食べてはいけない。生肉をつづけて食べてはいけない。
*江戸時代って、焼き魚と煮物ってイメージだったんだけど。結構肉食べてたんだね。
 綱吉以降変わったのかなあ。・・・おれにしても、生肉!!

ご飯のあとでまた茶菓子といって餅やだんごなどを食べたり、後段といって麺類などを食べると、腹いっぱいになって気を塞ぎ、食のために害される。
*江戸時代食べすぎ!!

とまあ、チャチャを入れてみました。