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八幡宿現地学習

2020年03月26日 | 歴史の道/中山道

2020/3/19(木)八幡宿現地学習
佐久歴史の道案内人の会の野外での会員学習会を開催いたしました。
定例会の後の午後の時間を使い、約1.5時間で主に中心部を歩きました。

主な、ルートはJA駐車場→八幡神社境内見学家→町家見学→脇本陣依田家/本陣本陣→根際道交差点→盗人道→桝形→常泉寺→生水大神→JA駐車場

八幡概略Map
<宿場説明>
* 宿場開設:宿場北方の蓬田(よもぎだ)村27軒、桑山村16件、宿場南方の八幡村20件の合計63軒の、人々が集められ1602(慶長7)年宿開設となった。三か村が集まり新しくできた宿場のため、当初は新(あら)町宿と呼ばれていたが、上野国(こうずけのくに)の新(しん)町宿があり紛らわしくなり、八幡宿と改称された。

<八幡宿地割り図>
* 集合した三か村は、それぞれに固まった場所に住居せず、入り組んで住んだため、村が複雑に入り組んでいる。問屋は本陣と三か村の名主の内の一軒が半月交代で務めた。(上図参照)
これは、現在も続き、お隣同士で郵便番号が違というようなことになっている。
* 江戸から24番目の宿場で街並みは約800m。道の両側に用水路が流れていた。
1843年(天保14)軒数143軒で本陣1、脇本陣4、旅籠3は、すべて中央の中宿に存在した。
* 西の望月宿まで3.5km(32町)、東の塩名田宿まで2.9km(27町)と極めて短い。これは、千曲川の川止めの際の待機地としての役割もあった。
また、当地は強粘土質の土壌で、雪解け時や降雨時の通行には困難を極めた場所でもある。



<八幡神社境内イラスト>
祭神:誉田別尊ほんだわけのみこと(応神天皇)、息長帯姫命おきながひめのみこと(神功皇后)、玉依姫命たまよりひめのみこと
創建、859(貞観元)年、滋野貞秀が上州雄徳山より勧進したものと伝わる。
勅使牧、「望月の牧」の南斜面でもあり、表玄関ともいえる場所で牧の守護神として祀られた。


<随神門>
1843(天保4)年建立。牧野康哉やすとしが大願主で、周囲の地域の小諸藩領地から欅材を調達した。
調達地の住民が運び込んだとされる。
構造:三間一戸楼門、一階と二階の間の親柱に擬宝珠(かざり)をつけた高欄の縁側が巡らされている。
両脇には、随神の武官、左大臣、右大臣が安置されている。刀の竜を見ると「阿吽」の形が分かる。
門の額は、明治初期のもので、小松宮彰仁親王による親筆で「止戈為武」と書かれており、「武とは戈を止めて武を為す」という意味です。


<算額のレプリカ>
本物は額殿(武徳殿)に奉納され保管されている。
算額は、「和算による問題と解法をしました」ものを額にしましたもの。
学問の向上を記念したり、成就に感謝して奉納されていた。
また、和算家の研究発表や交流の場とされていた。
長野県最古1780(安永9)年奉納の算額とされている。

<本陣(小松家)>
宿の中央北側に位置する。小松五右衛門が代々本陣・問屋を務めた。和宮通行の際のゆかりの品や関札(宿札)も多数伝えている。
残っている門は、中山道最古のもの
伝わる。

脇本陣跡(依田家)
宿の中央、南側に位置する。依田太郎兵衛家が脇本陣・問屋と八幡村の名主を務めた。古文書、関札が伝えられている。このほかに、脇本陣は2~3軒あった。


豆知識<八幡の読み方>
八幡宿=やわたじゅく
八幡神社=はちまんじんじゃ
八幡山常泉寺=はばんざんじょうせんじ


・・・宿の東「下原」には、五郎兵衛用水の水を利用した寄池(貯水池)4つと隧渠(トンネル)の話は別の機会に掲載いたします。


 



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