
6年生の川村先生と、平野先生が国語の教科書を見ながら話し合いをしていました。
2学期の最初に、「詩」の授業に取り組み、さらに子ども達を育てていきたいのだけど、昨年はどう取り組んだのかを聞いているのです。
昨年、指導主事の訪問が9月にあり、そのときに平野先生は「りんご」の詩に取り組みました。(私は、谷川俊太郎さんの「生きる」でした)
昨年のその日、指導主事の参観する自分の授業の前に、平野先生の授業を見せていただきました。そして、衝撃を感じました。
平野先生の授業のやり方がよく見えたからです。平野先生は、もちろん自分の解釈を持っています。そして、その解釈を子ども達が理解するために、どこを中心に扱おうか、そのためにはどの言葉を扱おうか、そのときどのように発問しようか、など、全て授業を綿密に組み立てているのです。
そのプランから外れないように、徹底的にプランを練り上げてあることを感じました。
だから、話し合いがすっきりしています。余計なところの話し合いのです。
平野先生のおよその解釈は、こんな感じでした。
リンゴの目の覚めるような鮮やかな「赤」そして、日だまりという懐かしい暖かさ。作者の伝えたいことは、この後半にあるだろう。赤から、子ども達は、恋や優しさや情熱など前向きな感情を読み取るだろう。だから、詩の前半と後半ならば、後半を中心に話し合おう...
その様子は、この板書からも読み取れます。
きっと、抱えきれないぐらい嬉しい思いや、恋の喜びがあり、その温かい心の象徴として林檎が描かれ、さらにそこに日の光が当たることで輝いている。誰かに、こんな嬉しいことがあったと話さずにはいられないぐらい、心からこぼれるぐらいの温かい思い.....
そして、そのイメージをさらに具体的に抱けるように、3種類の林檎を用意して、この「林檎の色」はどれだろう。どうして、その色でなければいけなかったのだろう。と流していました。
そんなご自分の指導について、思い出しながら川村先生に伝えていました。
私も、昨年「りんご」の授業を行いました。
しかし、平野先生のようにすっきりした授業ではありませんでした。子ども達とともに、どう解釈して良いのか迷い、のたうち回り、おそらく誰か見ていたら、何をしているのだろうというような授業でした。(だから平野先生の授業をみて、衝撃を感じたのです。)
私たちのこだわったところは、この板書に残るように、「この気持ち」の部分でした。このは、どこを指しているのだろう。気持ちはどのような気持ちだろう。と疑問に思ったのです。
探してみるのですが、指示語である「この」がどの部分を示しているのかよく分かりません。気持ちも「抱えきれない 気持ち」であり、押さえられずにあふれ出すものということは分かりますが、それが快い気持ちなのか、そうでないかが手がかりがつかめません。
「抱えきれない=抱える+きる+ない」です。抱えるという動作が終わることはない、のですから、とても自分には手に負えない大きさを感じます。
抱えるを調べると「②負担や不安をもたらすものを持っている。特に、面倒をみなければならない対象を持っている。」「個人として処理しかねるものを身辺に持つ。などと載っています。
これらの結果から、私の組では、おそらく、とても大きな悲しみではないかと考えました。
すると、その悲しみと、林檎の関係が分からなくなります。
そこで、りんごについて考えてみます。
林檎の赤い色から、恋ではないかと想像します。すると、悲しみと感じたものは、悲しみではなく、悩みだと気づきます。抱えきれないほどの、相手を思う気持ち、相手に伝えられない青春の悩み、などという意見が出てきます。
そして、その悩みはどんな悩みだろうと考えます。
その手がかりは「ころがってゐる」にありそうです。このころがるは、転がるのですが、①動いている(ころころ転がる)②ころんと無造作においてある。のどちらだろうと...
最初は、ころころ転がることをイメージしていました。ところが「いる」を調べる子がいて、「いる=居る」だから、止まっているのだ。だから②だと言うことが分かりました。
悩みは、無造作に置かれ、解決の方向にも、未解決の方向へも動かずに、降着しているのではないかと感じました。
そんな、詰まった気持ちだから、懐かしい日だまりの中の赤が、ほっと気分を解きほぐす温かさを感じさせたのではないかと読み取っていきました。
お二人の会話を聞きながら、そんなことを思い出したので、私も会話に参加させていただきました。そして、教師の解釈により、授業の流れが全く違ってくることに気が付きました。