
浜松授業研究の会、今回で30回目を数えた。
最初は、我々でも先輩たちようのな充実した学びの会が行えるのだろうか?と、不安と半信半疑の中で始めた。
毎回、教材を準備しているわけでもないし、だれか絶対的に指導できるメンバーがいるわけでもない。
それぞれが、これをみんなと学んでみたい、こんな実践をみんなに評価してほしい、そうした想いで学びを作り合っている。
石の上にも三年という。
3年(30回)続いたことは、評価していいと思う。
熱心に参加してくださった仲間たちに心から感謝している。
私も、それを通して、多くのことを学んだ。
とっさに意見を言わねばならない。
そうしたときには、意識が集中し、自分の脳みそがかき回されるような気がする。
また、仲間の実力が、目に見えて付いてきていることも感じる。
今、かなりのレベルの学び合いをしているのではないだろうか?
今回、河島先生からこのような話があった。
なぜいじめはなくならないか。
今色々な対策が考えられている。
が、それらではいじめをなくすことはできない。
過去何度もいじめが大きく取り上げられたが、いっこうに変わっていない。
それは、結局、子どもが変わらないのに、それを監視したり、警察と連携したりして解決しようとしているからだ。
子どもの心を内側から変えなければ、いじめはなくならない。
子どもを内側から変えるのは、授業だ。質の高い授業だ。
授業は子どもの精神を変えていく。
授業の中で生徒指導を行っていくことが必要。
どうしたら、質の高い授業になるのかを、教師は学んでいかなければならない。
林竹二が、
「子どもたちの自主性を尊重するという名目で、授業の中での本質的な厳しさが失われている。」と言っている。
「卑俗なもの常識的なものへの批判がなく、教材を通しての子どもと教師との格闘が欠けている。」と言っている。
斉藤喜博は、
「今までの固定した自分の考え方だけじゃだめだ。違う問題があるんだな、違う考え方があるんだな、違う世界があるんだなということを、子どもの心の中に起こさせていくのが教師の仕事だ。」と語っている。
「授業の中で質の高いものと出あわせ、子どもの浅い常識をくつがえさせていく。子どもの考えが互いに微妙に異なる場合には、その違いを明確にして、問題を立てていく。子どもの述べる考えが通俗的な次元に留まっている場合、子どもが低いレベルにとどまっている場合は、目ん玉が飛び出るような投げかけをしていく。教室を研ぎ澄まされた空間にしていくのだ。」と語っている。
授業は、予想が覆される場面に立ち会わされ、つい考え込んでしまう時間でなければならない。
気がつくと、自分も授業を作り上げる主人公の一人となっていて体が火照っている、そういう劇場体験をする場所なのだ。
授業が、そうした場にならなければ、いじめはいつまでたってもなくならない。
浜松授業研究の会は、互いの実践を持ち寄りながら、そうした授業、学級集団作りができるようになるための学びをしているのです。
そう話された。
まさに、これこそが、この会の意義なのだと思う。
次回以降の「浜松授業研究の会」の予定です。
第31回 | 2013年4月13日 | 土 | 9:00 | 12:00 | 天竜壬生ホール | 第2会議室 |
第32回 | 2013年5月18日 | 土 | 9:00 | 12:00 | 天竜壬生ホール | 第2会議室 |
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