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Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

他人ごとではない

2016-02-25 23:16:41 | ひとから学ぶ

 先日会社の車でお客さんのところへ届け物があって向かった。地方だから幹線以外はほとんどの道はセンターラインがない道。その道もそれほど広くはなく、利用者は限られるが、それでも幅5メートルほどあるから普通車なら減速もせずに行き違いできる。緩やかなカーブを抜けてやってくる車は乗用車。運転している方はわたしよりは少し年配の女性だと天候もよく明るかったからすぐにわかった。よそ見をしているでもなく、明らかに前方に視線をやっているのもわかった。ところが、カーブを抜けて来ると、どうみてもわたしの方に向かってくる。残されたスペースでは「行き違いできない」と察してアクセルを戻すが、その車は減速するでもなく、車道の真ん中を近づいて来る。「ぶつかる」、そう諦めたころ女性は顔色も変えずに少し急に左にハンドルを切って、最終的にはぶつかることもなく通りすぎて行った。数ヶ月前にも会社の車でぶつけられたばかりで、最近会社の車を運転していると「危ない」と思うことに度々遭遇している。会社の車を運転しているともなると、ほぼ平日の日中のこと。地方では危険な時間帯なのか、と思わせる。果たして女性は自分が車道のど真ん中を走っていて、相手の車と行き違いできると思っていたのかどうか。場面的にはこれまでの運転履歴の中でもあまりないケースであった。

 大阪梅田の繁華街で暴走事故が起きた。運転されていた方と歩いていた方が亡くなった。運転されていた方は事故で亡くなったのか、突然の病で亡くなったのか定かではないが、意識を失っていたという。偶然の悲惨な事故だ。異変に気がついて車道左に一旦停止していた車が、どういう理由かはっきりしないが動き出してそこそこの車速でスクランブル交差点の歩行者などを跳ねて歩道を走ってていって花壇にぶつかって停止したというもの。いまどきAT車はあたりまえ。しかし、MT車ではこういうことは起きない。一旦停止した際にパーキング入れない限り、アクセルさえ踏めば車は前進する。MT車でもギアを外さなければアクセルを踏めは前進していくが、クラッチへと足を移動しなければそのままアクセルを踏んでもエンストするのが普通だ。なぜ意識を失われたのか、大動脈乖離という疑いもあるという。年齢的に近い世代。他人ごとではない。運転されていた方はマラソン大会に参加するほど健康的なようだし、持病を持っていたというわけでもないらしい。偶然にしてこの繁華街で身体に異変を発症し、偶然にも車は発車した。どれほどの確率であったものか、その場にいあわせて事故に遭われた方々もまさに偶然にほかならない。どういうことでこういう事故が起きたのか、意図的に起きたものではないから、とても他人ごとではない。解明していただきたいとともに、自らもそうした偶然に立ち会う可能性があるということを記憶に留めなくてはならない。


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