生家のある地元の役場に仕事で立ち寄り、帰り際に分校時代の同級生とすれ違った。すれ違ったというより、横からやってきた集団に意識をしたら、その中に彼の顔が見えたというわけだ。そのまま通り過ごしても不思議ではなかったが、彼もわたしも、すぐに反応してその場で顔を合わせる意味を悟って声をお互いかけた。今年から彼が再任用で役場にいることは、町の広報を見て知っていた。彼もまたわたしが意識したのは、それと知っていて反応したのだと思う。
わたしの人生の中でも、そのまますれ違っても不思議ではないタイミングで、すぐにお互い反応して声を掛け合ったという例はそう多くない。彼とは分校時代からのつきあいだが、わたしも生まれた地元に住んでいないし、もちろんその後の学校も、仕事も世界が違ったから、親しいというわけではないが、とんでもなく久しぶりでも、お互い声を発したというわけである。以前にも何度となく記しているが、親しくなくとも何度となく顔を合わせている知人でも、道で会って今のようなマスク事情でなくともまったく反応しない人々がいる。とりわけある環境(ある公務員団体)にある人たちには、まったく反応しない人たちがいる。「無視をされている」と思ってしまうが、もちろん「なぜ」と常に思う。残念でならない人々だ。だからこそ、この日のことは、わたしにとっては珍しくわくわくものだった。
同じ日、ある山の中の家を訪ねた。「この家は住んでいるだろうか」とうかがいながら立ち寄る家を探していてたどり着いた家。それほどの山の中なのである。車を道に停め、坂を下りてその家にたどり着くと、表札を見て聞き覚えのある名前。20年ほど前、ある仕事でご一緒させてもらった。まさか、と思いながら「こんにちは」と玄関を開けるとおじさんが顔を出された。「??!!・・・」(あれ、このひとだったっけなー)、確実に表札の名前の方だと、その顔からはっきり判断することができなかった。おじさんは素顔であるが、わたしはマスクを掛けていた。聞きたいことを話し始めているうちに、わたしのことがわかったようで「○○さんかな」とその方から声を掛けていただいて、表札の方だとはっきりした。だいぶ歳はとられているが、当時とそう変わられてはいないのに、はっきりさせられなかった自分に、少し憤った(失敗感があった)。とはいえ、気安く声をかけていただき、それもまた、この日わくわくしたことのひとつ。
気がついてくれる、ということはわくわくするものだ、とつくづく思った。
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