JAあづみ梓・島々支所の庭でのこと、午後7時30分、「下立田区は、お揃いになりましたか」と、提灯を掲げた上立田区社中の大きな声かけで始まった。すると、「揃いました」と返しが入り、上立田区より「今晩は、おめでとう」の声に続いて周囲も「おめでとう」と大声でわき上がる。「先例により、お先に、御免」と返すと、「お通りください」とまた返答され、いよいよ獅子舞が始まる。庭には提灯を持った中老の人たちによって下と上それぞれの円陣が組まれ、円陣内では数人の法被を着た男達による前踊りが始まる。旧南安曇郡梓川村にある大宮熱田神社の宵祭りの始まりである。
大宮熱田神社は旧梓川村の北北条にある神社で、本殿は室町時代末期の建築だと言われ、国の重要文化財に指定されている。この例祭で奉納される獅子舞は、氏子のうちの上立田(かみりゅうだ)・下立田(しもりゅうだ)・大久保・丸田に神社のあるお膝元の北北条(きたきたじょう)と南北条の6地区に伝承されていて、このうち前者4地区と、北北条と南北条が隔年交互に例祭の宵祭りに奉納獅子舞を演じている。両北条のうち、残りの北条は本祭において奉納するという。現在は松本市に合併されており、安曇の印象はしだいに薄れつつある地域であるが、旧松本市内には獅子舞はほとんど伝承されておらず、いっぽうで安曇から筑北、うるいはここから北信地域に太神楽の獅子舞は多く伝承されており、そうした獅子舞の伝承地という捉え方からも、この地域が安曇であるということをあらためてうかがい知ることができる。
前踊りは「前座の踊り」と言われているらしいが、豆しぼりの手ぬぐいを両手で広げて持ち、腰を落として前後左右に腰を動かし滑稽に踊るもので、手ぬぐいを意図的にヒラヒラと揺らせて、正面から見た場合、自らを隠したり見せたり、といった所作は卑猥にも見える、というかそう見せている。下と上に分かれてそれぞれで舞われるが、下の方が先んじるのはいずれの舞も同じであり、上の方が後まで舞う形をとっている。これが毎年のことか、隔年で変化するのかは確認できなかったが、ある中老の方に聞くと、「同時」に行うはずだという。
獅子の最初は「四方舞」と言われるもの(上立田では「シオマキ」という)。頭を一人、幌を持つもの一人、典型的な二人立ちの獅子舞である。下立田にはつかなかったが、上立田には獅子の他に奴が登場する。ようは獅子をあやすような仕草で、獅子に対峙するわけだが、獅子は動じずに自らの舞を舞うという印象を受けた。ようは両者が絡んでいるわけでもなく、奴の一人芝居といった感じだ。後方が幌を高く上げて獅子を大きく見せながら、頭は両手で幌を前に垂らしゆったりと前に進むと、幌を絞ってくるくると回しながら払う。これを右・左・前と進んでは下がり繰り返す。
次の舞は「幣束の舞」である(上立田では「ヤツウチ」という)。左手に幣束、右手に鈴を持ち、後方は「四方舞」と違って獅子の胴体に徹するように獅子をコンパクトに見せる。すると奴一人が右手にササラ(下は竹、上は割竹)と赤く塗られた男根(擦り棒)を持って登場する。上立田の「四方舞」と同様に、奴と獅子が絡むようで、実際は獅子はそれほど奴を意識するわけでもなく、自らの決められた動きに終始する。奴はササラを擦り棒である男根に盛んに擦り合せ、あるいは叩きつけながら音を立てながら滑稽に踊る。ここでは下も上も奴は素面で獅子と対峙する。動きからみると、奴は獅子のもどきとも考えられ、そこにあやしの所作が付け加えられたともいえる。「幣束の舞」には周囲に円陣を組む座元の神楽歌がつく。
「幣束の舞」がひと舞終わると、再び後方は幌を高くあげ、下と上との舞合わせのような接近があり、その後それぞれの獅子は円陣の周囲にいる観客へ近づき、いわゆる頭を噛むような所作をして回り、ここでの舞を終える。他の地区の様子は未見であるが、どこの地区もそれぞれの地区で舞を披露してから神社へ向かうのだろう。この後、上立田の舞台(ブテンと呼ぶ)、下立田の舞台の順で、大宮熱田神社へ向かう。
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