Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

年々変わっていくコトヨウカ行事の状況

2017-02-13 20:11:47 | 民俗学

追倉 道祖神と青面金剛に巻かれた綱

 

厩所の道祖神 かつての道祖神と見比べると・・・

 

上手町の道祖神 かつての道祖神

 

 かつて「コト八日を探る」を10回に分けて記した。平成23年のことだから、もう6年前のこと。松本市におけるコトヨウカ行事について調査をして、それは『「松本のコトヨウカ行事」調査報告書』として発行されている。先日『伊那谷のコト八日行事』という報告書が文化庁より発行されたことが新聞に紹介された。いまだ曖昧な状況という印象が拭えない「伊那谷の」コトヨウカ行事がどう報告されているのか興味深いのだが、まだ一般人には目に留まるところに公開されていないようだ。ということである教育委員会に送付されたものを見せていただいたのだが、曖昧さはある程度整理して書かれているが、結局「伊那谷の」という部分は晴れていないし、それを解きほぐすだけ飯田市周辺以外の事例に対しては調査がされていないという感じだ。たとえば先日来ここに記した松川町樫原のコトネンブツは扱われていないし、以前ここに記した旧高遠町引持の事始め念仏も扱われていない。

 さて、松本市里山辺追倉(おっくら)のコトヨウカの綱引きが昨年から実施できなくなっていると聞いて、行ってみた。追倉のものは松本市の無形民俗文化財に指定されていて、その名称は「里山辺追倉のお八日の綱引き」という。大久保姓5軒で実施されてきた行事だが、最近2軒がなくなり、3軒しか仲間がなくなってしまったという。参加人数が減ってしまって今年は6人だけだったという。持ち寄った藁で網を撚って「龍」を作り、これを輪状に結んで数珠に仕立てて念仏を唱える。それが終わると、男女に分かれて輪を解いて綱引きをする。女性が勝つと五穀豊穣、無病息災と言われ、毎年女性が必ず勝って終わる。終わったらこの龍を道祖神のところまで持っていき道祖神に巻きつけるというもの。綱引きをするからそこそこ太い綱を撚っていたのだが、人数が少なくて撚ることができなくなったのが綱引きをしなくなった理由のよう。したがって写真のようなしめ縄程度の綱を作って、これを輪にして数珠に仕立て念仏はやったというが、とりわけ注目されていた綱引きはこれで2年続けて実施されなかった。里山辺と入山辺の境にある追倉は県道から北側の山手に急坂を登っていったところにある傾斜地。同姓だけの集落とあって、減ることはあっても増えることはなさそうな環境にある。したがって中絶したものが復活する可能性はかなり低いと言われている。

 あれから6年、年々状況が変わっていって当然なのだろうが、集団で実施される年中行事の現状も絶滅寸前のものが少なくない状況だろう。そして何と言っても個人の行う年中行事はさらに廃絶の危機にさらされている。追倉へ行ったついでにかつてコトヨウカ行事を調べた際に、わたしが担当した入山辺厩所まで足を伸ばしてみた。川沿いにビンボーガミを焼いた痕跡があって、今年もちゃんと実施されたことは解った。そのいっぽう当時もすでに個人の家で実施しているコトヨウカの行事であるエブリダシの実施数が少なかったわけであるが、エブリダシはもちろんのこと、道祖神に餅を塗る習俗も明らかに当時より衰退している雰囲気がうかがえた。たとえば道祖神を見てみると、かつてのように賑やかに餅が塗られた痕跡はなく、かろうじて餅が少し塗りつけられているだけだった。隣の原集落にある県道端の道祖神には、まったく餅がついていなかった(過去の写真はこちら)。何度となく日記でも指摘していることだが、個人宅の行事に、より廃絶危機が訪れていることは言うまでもないし、これらを文化財に指定していくことはできないものなのか、と思ったりもするところだ。


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