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樫原のコトネンブツを訪ねる・後編

2017-02-12 23:25:37 | 民俗学

樫原のコトネンブツを訪ねる・前編より

 

 

 コトネンブツは現在育成会の事業として行われている。したがって育成会が子どもたちの世話をして行っているが、かつては子どもたちだけで行っていたもの。育成会とは別に世話人が行事を支援するが、その世話人は地蔵堂の信徒総代の方々。コトネンブツが地蔵堂を中心に行なわれることから信徒総代が支援するようになったのだろう。この信徒総代は樫原自治会の中で6人選出される。隣組が7つあって、それぞれの組合から1人選出されるが、1人は大島神社の総代になるため、残りの6人が地蔵堂信徒総代となる。そのうち年齢の最も高い者が総代長になり、現在は昭和26年生まれの方が務めている。その総代長さんが子どものころが子どもたちだけで実施した時代の最後のようだ。地蔵堂には年間5回の行事があり、信徒総代が世話人として行事を実施している。それら行事は、

5月8日 お釈迦様誕生花祭り
8月16日 地蔵堂盆供養
9月11日 地蔵堂秋彼岸供養
3月5日 お釈迦様涅槃会お花餅
3月12日 地蔵堂春彼岸供養

以上の5つ(平成28年度実施日)である。
 この行事にはお寺さんがやってきてお経をあげてくれる。そのお寺は近くにある海蔵寺である。地蔵堂らしきものが初めてできたのは安政年間だったという。当時はお堂らしいお堂ではなかったようだ。創建には海蔵寺の本寺である専称寺と関わっていたとも言われるが、現在のお堂を樫原自治会で管理しているところから、樫原の有志で建てられたものなのかもしれない。堂内にある額には明治41年の「地蔵堂奉額寄付人名」というものがあり、そこに記されている方たちは発起人1名のほか31名であるが、うち16名は女性である。男性にあって女性にない姓があること、女性が半分を占めるというあたりから、もともと地蔵堂にかかわる信仰(行事)は女性の手によっていたのではないかとも想像される。ちゃんとした地蔵堂が初めて造られたのは明治38年のことで、その時からコトネンブツが始まったと言われている。現在のお堂は昭和31年に建て直されたもの。

 この日は子どもたちや世話人も含め、午前10時半に樫原会所に集まる。最初に信徒総代長さんよりコトネンブツの言われが説明される。始まった時代のこと、かつてのコトネンブツの様子などである。前編でも触れたとおり、かつては地区内にある家々をまわって念仏をあげたという。まわっていくとそれぞれの家ではお賽銭をくれた。そしてお宿というものがあって、その家にコトネンブツの後に子どもたちが集まって塩けのご飯をいただき、年長の者は泊まったという。大正時代のこと、一時念仏を辞めたところ流行病が蔓延したため、再開したら流行病はなくなったという。

 説明が終わると会所から地蔵堂へ向かう。会所のすぐ下の三叉路のあたりをホンヤリ場といい、そこの横に流れる川で手を洗って潔めをする。地蔵堂に行くと狭い堂内に子どもたち全員が入り、数珠繰りとなる。かつては子どもたちの年長の者が最初と最後の唱えごとを言ったというが、今は信徒総代長さんの号令で始まって、終わる。信徒総代長さんのところにある房のついた数珠の大玉が3周時計と反対回りに回されると終了となる。唱えこどは前編に示したものとは少し違って「念仏衆生説法世界静粛舎」が始まりのもの、「願日切徳生一斎御局大師」が終わりのものである。この唱えごとに続いて数珠を回すわけで、その際はひたすら「南無阿弥陀仏」を唱える。鉦は年長の男の子が叩いた。大玉がまわってくると額につけるように願いを込める。地蔵堂でコトネンブツが終わると、会所に戻ってもう一度コトネンブツを行ない、行事は終了となる。このあと会所において昔通り塩けのご飯をいただくというわけである。現在は2月の初めの土曜日ころを実施日にしているようだが、かつて実施した日についてはっきりした日は総代長さんも覚えておられなかった。前編でも触れているが、『松川町の年中行事』では6日に実施したと記されている。現在は「風の神送り」は行われていない。この日参加された子どもたちは24名だった。


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