生かされて活かされて 痛さん&さなさんのブログ

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酸ヶ湯~鶴の湯~浄土ヶ浜 2000Kmドライブ旅行

2018年07月25日 | ドライヴ
7月9日(月)午前6時。
愛車シビックが軽快なエンジン音を発して横浜をスタートした。
今日から3泊4日の日程で東北地方2,000Kmのドライブ旅行の始まりだ。
予定では東北道の黒石IC経由で八甲田山麓の酸ヶ湯温泉まで一気に走って一泊し、十和田湖から田沢湖をめぐって乳頭温泉郷・鶴の湯で一泊。
田沢湖から岩手県を東に横断して浄土ヶ浜へ行き、戻って花巻で一泊。
翌日ひたすら東北道を横浜まで帰ってくる。ワイフとの二人旅だ。

午前7時、首都高速湾岸線~中央環状線と乗り継いで東北道の浦和料金所を通過。
途中豪雨にあったが今は晴天だ。
月曜日の午前6時だとまだ都内の道路は混雑が始まっていないのか、実にスムーズだ。
1時間で都内を抜けてきた。
そのまま空の広い東北道を北へと飛ばす。

途中、トイレ休憩&昼食&燃料補給をしながら、さらに北へ、北へ。
花輪SAで最後の休憩をとり、午後3時15分に東北道・黒石ICを降りる。

秋田犬をモチーフとした土産物


ここまではほぼ予定通りだ。
そのまま閑散とした道路を十和田湖方面へ。



スーパー林道のような道をたどると、やがて目的地の酸ヶ湯温泉に到着した。

「酸ヶ湯温泉」


ここ酸ヶ湯温泉は『およそ三百年前の貞享元年(1684)、横内(現青森市内)に住む狩人「小山内 佐ヱ門四郎」が鹿をしとめそこない、その手負いの鹿を追って山へ入った。それから3日後に発見したが、傷を負っていたはずの鹿があっという間に岩山を駆け上がり逃げ去ってしまった。その俊敏さをみて不思議に思い、付近を探索したところ温泉が湧いているのを見つけた。その後、その温泉に薬効があることを知り「鹿の湯」と名づけ利用した』という由来があります。
江戸期より湯治客が多く、現在の大浴場「熱湯」の周辺に数ヶ所お湯が湧き出しており、地元の者がそこに小さな小屋を建て、山菜取り人や狩人らに温泉を開放していたそうです。
そういった小屋主(湯主)らが協力して組合を設立したのが「酸ヶ湯」の原形となりました。最初は湯治棟しかありませんでしたが、その後旅館部等を増改築し現在に至っております。
(公式HPより引用)

公式HPにあるように、現在はかなり大きな(広い)温泉宿になっている。
私達が宿泊した部屋は旅館棟7号館の2階。



小さいながら縁側、床の間つきの和室だが、それほどきれいではない。
洗面所、トイレは部屋の外で共用。
食事は、朝夕共に食事処に出向くシステムだ。
部屋の出入りは引き戸、廊下が板の間なので足音が響く。



湯治場と思えばそれなりの部屋である。
が、驚いたことに部屋で無料のWiFiが使えた。
時代の流れなのだろうか、それとも海外からの客が増えたためだろうか。

荷をほどくと早速「ヒバ千人風呂」へ行ってみた。
ここは酸ヶ湯温泉のメインのお湯である。

 

混浴である。が、行った時は男性が4、5人しか入っていなかった。
(女性用に専用タイムが設定されている。 午後8時から9時、午前8時から9時)
温度の違う2つのお湯は白濁していて芯から温まる。
千人風呂というだけあって、バスケットコートが2面取れそうな体育館のようだ。
木造の建物は古く、湯がしみ込んでいる。それがまた良い。

 
写真撮影NGなので、公式HPから借用。

夕食はフツーの旅館で出されるフツーの献立であった。
畳敷きの部屋でテーブル席だ。

 

朝食は夕食とは別の部屋でバイキングだった。
和洋どちらにも対応できるような料理が数種類、それぞれ大皿に用意されていた。朝食メニューもいたってフツー。



木造の温泉棟の他はかなり近代化されている。


翌朝の午前9時、予定通り最初の目的地「阿修羅の流れ」へむけて出発。
来るときはあまり気にならなかったが、かなり山を登ってきていたようで十和田湖に向かって下りが続く。
奥入瀬渓流はTVや雑誌で良く目にするが、今まで行ったことがない。
今回のツアーで楽しみにしているポイントだ。
緑に囲まれた割と整備された道をしばらく進み、目的地「阿修羅の流れ」に到着。
数日前に降った雨の影響か、想像していたより水量が多い。
それにしても水の流れは見ていて飽きない。

   

ここで少し長めに時間をとって次の目的地、十和田湖へ。
Googleのストリートビューであらかじめ駐車場を調べておいた十和田湖ビジターセンターへ向かったのだが、ここの駐車場へは入れなかった。
仕方がないので道路を隔てた有料駐車場に車を入れる。
駐車場から少し歩いて十和田湖畔へ。

 

そのまま十和田湖畔を15分程歩き、乙女の像を見に行く。

「乙女の像」(昭和28(1953)年秋の完成)
詩人にして彫刻家であった高村光太郎の傑作として知られ、十和田湖の文字どおりのシンボルとなっています。
像は、向かい合う二人の裸形の乙女。当時、光太郎は岩手県太田村の山荘で過ごしていましたが、制作のため東京へ戻り、中野にある友人、中西利雄(画家)のアトリエで取り組みました。
「湖水に写った自分の像を見ているうちに、同じものが向かい合い、見合うなかで深まっていくものがあることを感じた。それで同じものをわざと向かい合わせた」
「二体の背の線を伸ばした三角形が“無限”を表す」
「彫刻は空間を見る。二体の間にできるスキ間に面白味がある」
と、モチーフを語っています。
制作中、像の頻は白布で覆われ、だれにも見せることはありませんでした。完成後、「あれは智恵子夫人の顔」といわれるようになったが、「智恵子だという人があってもいいし、そうでないという人があってもいい。見る人が決めればいい」と光太郎は答えています。
体の方はモデルがいました。藤井照子、当時19歳。東京のモデルクラブに所属する姉妹の1人でした。青森県野辺地町出身の彫刻家、小坂圭二が光太郎の意を受けて探し当てた人で、みちのくの自然美に対抗できる、力に満ち満ちた女性美の持ち主。彼女は選ばれたことに誇りと使命を感じ、光太郎の制作の手が止まると「先生、始めましょう」とうながしては奮い立たせました。
(十和田湖国立公園協会HPより抜粋)

  

発荷峠からの十和田湖


午前11時45分、十和田湖を出発。次の目的地は秋田県にある田沢湖。
小一時間走って十和田湖ICから東北道に乗る。
途中、花輪SAで昼食を摂り、盛岡ICで東北道を降りる。
そのまま一般道を西へ向かい、田沢湖を目指す。

「田沢湖」
最大深度は423.4mで日本第1位(第二位は支笏湖、第三位は十和田湖)、世界では17番目に深い湖である(世界で最も深い湖はバイカル湖)



舟越保武作の「たつこ像」
 

「辰子伝説」
田沢湖のほとり神成村に辰子(タッ子、または金釣(カナヅ)子ともいわれる)という名の娘が暮らしていた。辰子は類い希な美しい娘であったが、その美貌に自ら気付いた日を境に、いつの日か衰えていくであろうその若さと美しさを何とか保ちたいと願うようになる。辰子はその願いを胸に、村の背後の院内岳は大蔵観音に、百夜の願掛けをした。必死の願いに観音が応え、山深い泉の在処を辰子に示した。そのお告げの通り泉の水を辰子は飲んだが、急に激しい喉の渇きを覚え、しかもいくら水を飲んでも渇きは激しくなるばかりであった。狂奔する辰子の姿は、いつの間にか龍へと変化していった。自分の身に起こった報いを悟った辰子は、田沢湖に身を沈め、そこの主として暮らすようになった。
北方の海沿いに、八郎潟という湖がある。ここは、やはり人間から龍へと姿を変えられた八郎太郎という龍が、終の棲家と定めた湖であった。しかし八郎は、いつしか山の田沢湖の主・辰子に惹かれ、辰子もその想いを受け容れた。それ以来八郎は辰子と共に田沢湖に暮らすようになり、主のいなくなった八郎潟は年を追うごとに浅くなり、主の増えた田沢湖は逆に冬も凍ることなくますます深くなったのだという。
(ウィキペディアより抜粋)

午後3時50分、田沢湖を後にして今夜の宿「鶴の湯」に向かう。
乳頭温泉郷の中で最も古い歴史を持つ鶴の湯は、日本一予約の取れない宿で有名なのだそうだ。
秋田藩主の湯治場だった由緒ある温泉で、今でも警護の武士が詰めた茅葺き屋根の長屋「本陣」が残っている。
予約は電話のみ、それが一発で予約が取れてしまった。
ただ、本陣などは予約が一杯で湯治客用のような部屋しか空いていなかったのが少し残念。

幹線道路を外れ、穴ぼこだらけの未舗装の山道を少し走った先。
鶴の湯に着いてびっくり。
時代劇のセットのような建物が目の前にあらわれた。半端ないレトロ感。
これはマジで時代劇の撮影で使える。

 
 

予約の取れた部屋は三号館1階の一番奥の部屋。
6畳のこじんまりとした部屋だが、たばこ臭がひどい。
隣が自炊場になっている。



トイレ、洗面所は湯治場の常でモチロン共用。
ただ洋式トイレはウォシュレットだった。
また、鶴の湯でも部屋で無料のWiFiが使える。携帯の電波も問題ない。

さっそく混浴の露天風呂へ行ってみる。
鶴の湯は4つの源泉があるとかで、それぞれの源泉ごとに湯屋が分かれている。

 

混浴の露天風呂は小さな橋を渡って右にあるのだが、ちょっとした池サイズで想像したよりだいぶ小さい。
目隠しの生垣はだいぶ枯れていて、角度によっては外から良く見える。
お湯は白く濁っている。
立ち上がると腰より下くらいの深さしかない。
女性用の脱衣所から露天風呂へは大きな岩が目隠しになっているが、女性が明るい時間帯に入るにはかなりな覚悟(勇気)が要りそうだ。
お湯の温度はそれほど高くない。


写真撮影NGなので、公式HPから借用。実際はこれほどキレイではない。

鶴の湯温泉は乳頭山(1478m)の麓の乳頭温泉郷の八軒のうちの一軒で同温泉郷の中でも最も古くからある温泉宿です。
古くは寛永15年(1638年)に二代目秋田藩主・佐竹義隆が、寛文1年(1661年)に亀田岩城玄蕃が、鶴の湯に湯治訪れたといわれています。一般客相手の湯宿としての記録は元禄時代(1688~1704年)から残っています。
鶴の湯の名前の由来は地元の猟師.勘助が猟の際に傷ついた鶴が湯で傷を癒すのを見つけ事がそのまま鶴の湯の名に残ったのだといいます。
また鶴の湯の半径50m以内に泉質の異なる4つの源泉が湧いています。
それぞれ 白湯 黒湯 中の湯 滝の湯と源泉名がついていますが同じ敷地から効能、泉質共に異なる4つの温泉が湧く珍しい温泉場です。
(鶴の湯公式HPから抜粋)

夕食は「本陣」の食事処でいただく。
料理は山菜が中心でヤマメの塩焼きがついていた。
山の中の旅館は「これじゃなくっちゃ」。
地の物を肴に地の酒を飲む。
これが最高の贅沢っていうもんだ。
囲炉裏の鉄鍋に山芋の団子汁が煮えていて、お代わりが自由だった。
外は雨、半袖では少し寒い。

 

翌朝も雨、霧が出ていた。

 


午前8時30分、予定より30分早く鶴の湯を出た。
今日は岩手県を東に横断して宮古市の浄土ヶ浜まで走る。
宿を出て1時間ほどで盛岡ICを通過して、一般道を東へ山の中を宮古市へと向かう。
雨が降ったり止んだりしている。

昼食は途中の「うちさわ」さん。
ネットで調べたら地元で有名な店のようだ。
ちょうど昼食時のせいもあるのか、車で頻繁に客がやってくる。
この店の名物という「かつ丼」と蕎麦のセットを注文した。
ワイフは「天ざる」だ。
かつ丼も蕎麦も悪くはない。
天ぷらもサクッと上がっていて美味しかったそうだ。

  

腹ごしらえもできたところで、再び浄土ヶ浜を目指す。
ここまでくればもう一息だ。

「浄土ヶ浜」
三陸復興国立公園・三陸ジオパークの中心に位置する浄土ヶ浜は、宮古の代表的な景勝地。
鋭くとがった白い流紋岩が林立し、一つ一つ違った表情を見せて海岸を彩ります。松の緑と岩肌の白、海の群青とのコントラストはまさに一見の価値あり。
浄土ヶ浜の地名は、天和年間(1681~1684)に宮古山常安寺七世の霊鏡竜湖(1727年没)が、「さながら極楽浄土のごとし」と感嘆したことから名付けられたと言われています。
(宮古市HPから抜粋)

まだ新しい浄土ヶ浜ビジターセンターに車を置き、エレベーターで海岸に降りる。
そのまま海岸沿いの遊歩道を15分程歩くと目的の浄土ヶ浜に出てくる。



   

この辺りは2011.3.11の東日本大震災で津波の被害を受けている。
あれから7年、今はすっかり復興していて(たぶん)以前の景観を取り戻しているのだろう。


午後2時10分、浄土ヶ浜を後にして今夜の宿泊地「花巻」へ出発。
途中、河童の里「遠野」を経由する。
盛岡から宮古まで高速道路ができるようで、建設のためのトラックがかなり走っている。

2時間ほど走って、道の駅「遠野風の丘」でトイレ休憩。
土産物にはカッパが多い。

 

近くの遠野ICから釜石自動車道へ入る。
この釜石道は今は無料だが、そのうち有料になるのだろうか。

ツアー最後の宿は「ルートイン花巻」。



ルートインは全国展開しているビジネスホテルで、出張の時にあちこち利用しているので勝手がわかっている。
花巻空港ICで降りると直ぐなので車で移動している時には立地が良い。

ツアー最後の晩餐はホテル真ん前の「りょうり丸」さん。
のれんをくぐると「本日予約のみ」の看板が立っていた。
この辺りには他に居酒屋が無いので、ワイフが直接交渉。
「いいって」とワイフ。

好物のビールがサッポロのみ、というのが残念だったが、刺身はうまい。
「このカキフライも大きくておいしい」と、ワイフ。




7月12日、ツアー最後の日。
午前8時45分に宿を出る。
朝から雨がしょぼついている。
花巻空港ICから釜石道に入り、花巻JCTから東北道に乗り入れた。



午前11時16分、安達太良SAに到着。昼食&給油を済ませ再び横浜を目指して走り始める。

そのまま東北道をひた走り、午後2時30分、川口JCTから首都高速中央環状線へ。



東京は晴れ、いい天気だ。スカイツリーが良く見える。
葛西JCTから湾岸線に入り、午後3時15分、無事に横浜へ帰ってきた。