3月11日、余震が続く夜の闇に爆発した製油所の真っ赤な炎。避難所には入りきれない人々が寒さと恐怖に震えながら夜をすごす。館内は許容を超えた人員に対応できず、あっという間にトイレは使用できなくなった。便臭が漂う厳しい環境。
翌朝、私が目にしたもの…
私の生まれ育った美しい町は無くなっていた。言葉にならなかった。家族、親せきの安否を確認し水や食料を届ける。町内で会った知人のばあちゃんに「もう何も無くなってしまった」と泣いて訴えられた。はげます言葉がない。ただ黙ってうなずきながら話を聞くことしかできなかった。その後、災害ボランティアセンタ-へ。電気、水道もストップ。通信施設が津波で流されてしまったため電話もつながらない七ヶ浜町。災害ボランティアセンタ-といっても資材もガソリンもない。何もないと言っても過言じゃない状況からのスタ-トだった。
給水活動、支援物資の仕分け、避難所の手伝いには学生が活躍した。中学生が自衛隊とともに物資の仕分け作業をしていた。子供たちの活躍に頼もしさを感じた。
県外から最初に駆けつけてくれたのが阪神大震災を経験した方々だった。自己完結の装備で車に寝泊まりしながらの作業でした。ありがたかった。その後、徐々に態勢も整いはじめ寒さに震えながらも住宅のガレキ撤去、泥だし作業が続く。
春が訪れ桜の季節。だが昨年桜を見た記憶がない。そんな余裕がなかったのだろう。電気が回復したころからボランティアへの問い合わせが多くなる。多くのボランティアセンタ-では懸念される問題を抱えていた。5月の連休に多くのボランティアが集中し対応できないのではとマスコミが騒いでいた。受け入れ制限をするセンタ-もあったようだ。でも私は心配していなかった。せっかく多くの方々が来ていただけるのなら浜をきれいにしてもらおう。
七ヶ浜町は三方海に囲まれ美しい景観の町だった。東北で海水浴発祥の地である菖蒲田浜海水浴場をもつ。白砂青松の美しい海岸線が今回の津波により壊滅的打撃を被った。以前の美しい景観を取り戻したい。そのお手伝いをお願いした。個人宅のガレキ撤去と並行して海岸清掃に取り組んでいった。今、多くのみなさまのおかげで白い砂浜はよみがえり、砂浜に繋がる松林のガレキも片付いた。まだ震災の爪痕は残ってはいるがサ-ファ-が、家族連れが海を訪れるようにまでなりました。震災前、浜にはハマギクという花が咲いていました。津波で流された景観を取り戻すためハマギクの苗を全国に呼び掛けました。すると、なんと2000株を超える苗が届いたのです。感謝です。以前の地区住民は散り散りになっています。だからもう一度この浜にみんな集まることが必要でした。昨年9月に住民が通年行っていた夏祭りを復興祭として開催しました。震災以来、海が怖くて近づけない方々が大勢います。でもこれだけ浜がきれいになったんだということを知って欲しかった。ボランティアのみなさんにきれいにして頂いた浜を見て欲しかった。そこで地元住民とボランティアのみなさんと一緒に感謝をこめてハマギクを植えたんです。ハマギクの花言葉は「逆境に立ち向かう」…まさに私たちに必要な姿勢です。その夜は多くの住民とボランティアのみなさんで夜空に輝く大輪の花火を一緒に見ることができました。今までは地元の住民が運営管理していた砂浜は自分たちの浜と思っていました。しかし今回の被災により全国から、全世界から浜に駆けつけていただいたことで多くのみなさまがこの浜にたくさんの思い出を持っていたことに気づかされ、また多くのみなさまにこの浜へ思いをこめていただいたことに感謝しています。
まだまだ厳しい状況ではありますが明治より続いてきた菖蒲田浜海水浴場。多くのみなさまの思いがいっぱいつまった海水浴場をよみがえらせたい。本格的な海水浴をするにはまだまだ整備と時間が必要です。
今回の震災は本当に苦しく悲しい出来事です。自分の大事な人が目の前を津波で流された人、愛する家族との変わり果てた姿での再会、長い年月をかけて築いてきたものを一瞬にして失った大勢の方々が今でも苦しさから抜け出せずにいます。
復興へはインフラ整備、住宅問題、雇用の問題と多岐にわたって山積みです。何が海開きだという人もいると思います。
しかし、この震災がなかったらきっと会うことがなかった人々との出会いと温かい気持ちに応えたい。恐怖から回復し美しい浜を見ていつか素直に美しいと思える気持ちを取り戻して欲しい。
だからこそ心の復興の始まりとしてやらなければならないのです。
人の力、心で美しく甦った砂浜のお披露目なんです。
感謝をこめて
「震災を乗り越えて…目指せ海開き」