さて、天草四郎といえば「島原の乱」で有名ですよね。
島原の乱とは、1637年、長崎の島原でキリスト教徒や農民達による、わが国の史上最大規模の一揆のことです。
当時、江戸幕府はキリスト教を禁止していましたが、長崎には隠れキリシタンが多くいて、キリシタンであることがバレると、熱湯に入れられたり火あぶりの刑に処されたりしたのだそうです。
当時の島原藩主、松倉重政(まつくらしげまさ)の過酷な年貢の負担やキリシタンの弾圧に対し、民を救うために当時16歳であった天草四郎がリーダーとして立ち上がり、原城に立てこもり、幕府軍と戦いました。
幕府軍も多くの戦死者を出し苦戦を強いられましたが、翌年の2月に制圧されました。
ある資料にはこうあります。
『……こうして鎖国政策が強化されていったとき、九州で島原の乱がおこった。そのころ、島原・天草地方には多くのキリスト教徒がいたが、領主は徹底した禁教政策をとり、年貢の取り立ても厳しくした。この圧政に反抗した農民は、天草四郎時貞を総大将として、1637(寛永14)年から翌年にかけて島原半島の原城跡にたてこもり、幕府軍と半年近くも戦ったが、武器や食料が尽きて敗北した」(『もう一度読む 山川の日本史』)
そして天草四郎は、一揆を起こした農民たちの先頭に立ち、最期は島原半島の原城に立てこもり、幕府軍によって農民たちと共に悲劇の最期を遂げたのでした。
原城に篭城していた37,000もの人々が、男も女も子供も、一人残らず殺されたそうです。
殺された人たちの死体は野ざらしにされ、また、さらし首にされる人もいたそうです。
今回は、このような悲劇の起こった場所を取材していたのでしたこの「原城」ですが、以前、1か所を掘っただけでも70体以上の人骨が出てきたという話がありました。
それほど荒れた地になっている場所を、今回の番組で取り上げていました。
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島原の乱とは、1637年、長崎の島原でキリスト教徒や農民達による、わが国の史上最大規模の一揆のことです。
当時、江戸幕府はキリスト教を禁止していましたが、長崎には隠れキリシタンが多くいて、キリシタンであることがバレると、熱湯に入れられたり火あぶりの刑に処されたりしたのだそうです。
当時の島原藩主、松倉重政(まつくらしげまさ)の過酷な年貢の負担やキリシタンの弾圧に対し、民を救うために当時16歳であった天草四郎がリーダーとして立ち上がり、原城に立てこもり、幕府軍と戦いました。
幕府軍も多くの戦死者を出し苦戦を強いられましたが、翌年の2月に制圧されました。
ある資料にはこうあります。
『……こうして鎖国政策が強化されていったとき、九州で島原の乱がおこった。そのころ、島原・天草地方には多くのキリスト教徒がいたが、領主は徹底した禁教政策をとり、年貢の取り立ても厳しくした。この圧政に反抗した農民は、天草四郎時貞を総大将として、1637(寛永14)年から翌年にかけて島原半島の原城跡にたてこもり、幕府軍と半年近くも戦ったが、武器や食料が尽きて敗北した」(『もう一度読む 山川の日本史』)
そして天草四郎は、一揆を起こした農民たちの先頭に立ち、最期は島原半島の原城に立てこもり、幕府軍によって農民たちと共に悲劇の最期を遂げたのでした。
原城に篭城していた37,000もの人々が、男も女も子供も、一人残らず殺されたそうです。
殺された人たちの死体は野ざらしにされ、また、さらし首にされる人もいたそうです。
今回は、このような悲劇の起こった場所を取材していたのでしたこの「原城」ですが、以前、1か所を掘っただけでも70体以上の人骨が出てきたという話がありました。
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