それは想定外のことであった。だからどう対処してよいか解からず一瞬思考が停止してしまった。いつも利用する私鉄の乗換駅でホームに入ってきた電車に乗りこんだ時のことだ。時刻は午前10時過ぎ、その車両は混んではいなかったが座席にはほとんど空きがない状況であった。
乗降口に近いところの座席の前に自分の立つ位置を決め発車を待っていた時だった。
「どうぞ掛けてください」と声をかけながら前に座っていた二十歳前後の青年がすっと立ち上がった。席をゆずってくれるというのである。生まれて初めての経験だった。今までお年寄りや体の不自由な方に席を譲ることは少なからずあったが、その日は譲られたのである。
若干不自然な間をおいた後「いいです。どうぞ座っていてください」と答えた自分がそこにいた。青年はなおも「つぎの駅で降りますから」といってもう座席から少し離れてしまった。
次で降りるといってもその電車は急行だ。次の停車駅まで12~13分は充分かかるはずだ。
席の譲り合いを続けるのも場がしらけてしまうようなので、その場は譲られて丸く収まるのかなと、複雑な心境ではあったが有難く座らせてもらった。
有難くというのは座れたことに対してではなく、そんな青年に出会えたことに感謝してのことだ。もちろん複雑な心境というのは、まだまだ席を譲られるような年齢ではないと思っているからだ。かの青年にはよほど高齢者に見られたのだろうか。まだ五十代半ば、頭頂部は少し淋しくなってきているものの足腰はまだしっかりしているし、自分の中では実年齢よりは若く見られることの多い自画像を思い描いている。そのキャンバスが一瞬のうちに消滅してしまったような感覚に陥った。ショックがなかったといえば嘘になるだろう。
考えてみると、青年の目には五十代も七十代もさほど違いがないのかもしれない。
今後着実にオジさんからオジイさんに向かっていくのは間違いのないことだ。だとすれば格好よく席を譲られるようなスマートな老人をめざそうと思う。
それにしても席を譲ってくれた青年に感謝しよう。貴重な初体験をさせてもらったゆえ。
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