うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

無為の人

2007年06月17日 | ことばを巡る色色
大学時代からの友達のMBちゃんが、また、難しそうな資格試験に合格した。ちょいと検索したら、合格率なんて一桁で、会社からは奨励金なんて出てしまうやつだ。彼女と長いインターバルの後再会し、それからずっと彼女は、わたしにとっては、「居てもらわなくては困る」友達だ。いっつも会ってるわけではないし、メールだって、気の向いたときに交わしているだけだ。でも、彼女のはわたしにとって欠くことのできないものだ。彼女がこの世に存在しているというだけで、私はずいぶん生きているのが楽なのだ。その逆を考えると、無闇に泣きたくなってしまうほど、私は辛いのだ。
振り返ると、わたしは長いこと、緊張しながら生きてきた。なんだかわからないまま「負けてはならぬ」と思ってきた。リアルな「敵」がいる訳ではない。負けてはならぬことは、「負かす」ことではなかった。気を抜いて甘えると途端に崩れていきそうだったということだ。周到にリスクを事前に排除するということに細心してきた。甘えてはならぬ、安心してはならぬ、気を抜いてはならぬと思ってきた。人は悪意を思っていなくとも、不幸な事態を起こしてしまう生き物で、その悪意のない、散漫で不用意な愛が不幸な事態を引き起こしてしまうことを避けるために、わたしは毎日緊張してきた。だからわたしは、ちょっとやそっとでは動じない、かわいげのない子であり、しっかり者だけれど、面白みのない子であった。傷つけられることを恐れていたのだろう。相手はわたしを傷つけようとしているわけではないのだ。ただ、わたしより己の利のほうを重く考えているだけなのだ。それを感じてしまうことが厭で、わたしは毎日をピリピリと過ごし、場を仕切り、いつの間にか「決める人」の役になっていた。「あなたに任せれば、何もかもが間違いなく進んでいく」という役回りを甘受してきた。わたしは、失望することが怖かったのだろう。悪意なく裏切られるのが悲しかったのだろう。
今の私は、そんな緊張も過去のものとなったのだけれど、安心して、全てを投げ出して人と添っていくことが苦手だ。そんな「欠けている」わたしにとってMBちゃんは数少ない、安心して一緒にいることのできる人だ。彼女の段取りは、細やかなの注意がされているのに、相手にそれを感じさせない。「わからぬ人」の場合、こともなげに彼女がこなしたと思っているだろうし、彼女の配慮に無関心で、そんなものに彼女が傷ついたことも少なくはないだろう。
彼女と再会してから、わたしでは覚えきれぬほどの資格を彼女は取っている。それと比してわたしはその間を、無為に過ごした。確かに彼女は理系で、わたしは文系で、あるという違いはあるけれど、多くの学生を擁するわたしの出身大学は、彼女のような「玉」とわたしのような「石」が混交してしまうわけだけれど、それにしても、なんとわたしの無為であることだろう。
日本の昔々のお話は、無為であることに非常に寛容である。むしろ無為を奨励し、賞賛するようなきらいさえある。「三年寝太郎」などはそのよい例であろう。無為は有為を産むと考えるのは、萌芽までの時期にうんともすんとも言わぬ土を待つからであろう。しかし、大人の無為はいただけない。寝太郎は「寝る子」であるから育つのであり、「寝る大人」ではお話にならぬ。
それでも、無為のわたしは今更のように、何をなすべきか探しあぐねている、なんてね。
世の中を見渡すと、地面の一点を執拗にほじっている人、空に向かって虚しく拳を上げる人、攻撃を恐れ体を丸める人、上機嫌で文句を言う人たちの群れ。どの人たちを見ても、自分の居場所がない様に思えてしまう。自分が上等な人間だからというわけではなく、ただただ、どこも居心地が悪い。自分の無為は棚に上げてだけれど、わたしは充足できない。無為のわたしは無為の体を携えて、どうしたら満足できるんかな、と今日も考えよう。
コメント (4)
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