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瀬戸内寂聴「孤高の人」



2月8日(火)
構えず感想をメモしたいのでこのカテゴリー※を追加した。
県立図書館で、瀬戸内寂聴の「孤高の人」湯浅芳子伝を読むが、失望した。伝記は書かれる人以上にそれを書く人の器量をあらわにする。「百合子、ダスヴィダーニャ」は若い(30代)作家で、人生の先輩としての彼女への敬愛の念があった。こちらは70代、そもそもの初めからして、「田村俊子」執筆に際しての出会いだから、田村に小僧代わりにこき使われていた湯浅には敬意を抱きようがないだろうし、実際、30年の間わがままな湯浅に物心ともに振り回されて、ずいぶんひどい目にあったのだろうが、それなら、こんなタイトルをつけた動機が判らない。イヤミなら判るが。第一、新田次郎の小説とかぶっている。
寂聴が、処女作「女子大生・曲愛玲」→06-10-23からレズビアンに題材をとり、終始関心がある割には、ある種の軽蔑を感じているらしいことが、筆致から感じられるのである。ご本人は華やかな男性経験があるので、全くない芳子を軽んじているのでは。誤解だといわれるだろうが、プロの作家なら誤解を招く表現は慎むべきだろう。

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追記 9年前に読んでいた。日記から引用する(2011-5-20)

2002年8月24日
瀬戸内寂聴「孤高の人」筑摩書房1997年刊
「ちくま」に90年12月~97年5月連載したもの。湯浅芳子のことを書いている。寂聴さんと湯浅芳子の関係は長いし多岐に渡っている。けれどもこの本の中には何か嫌悪感のようなものが脈々と流れていて、読み終えたあと清々しさが無いのだ。その点沢部さんの「百合子、ダスヴィダーニャ」(90年1月)とは異っている。作者が、物質的に湯浅さんを支えていたというが、流行作家として収入の多いため、いつもご馳走は彼女の驕りだったということが、このような軽視的態度につながるのか。愛と尊敬を抱けない限り、いかに親しく近い人のことをも、書くべきではない。文筆に携わる者はそれを肝に銘ずべきだ。あるいは湯浅さんの性的傾向がこれと関係あるのか?彼女が異性愛者だったら、もう少し敬意を以て遇されたのか?
死者はもう反論できないのである。「好きだ」と口で言いつつ、隠しようもない憎しみが溢れる。僧籍にある人とも思えぬ自制心のなさだ。

※2011-2-8 にカテゴリー「日記」を追加した。「本」とすると形式を整えるなど、大げさになり軽い気持ちで書けないからだが、検索する際、何かと不便になることが判明、再び「日記」から「本」に入れなおした(2011-5-20)。以上の説明は(2013-11-30)。

→「女子大生・曲愛玲」 6-10-23
→「ひとりでも生きられる」9-6-23
→「百合子、ダスヴィダーニャ」の映画化 11-2-5
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