文章教室課題「糸」2006・7・5提出 7・19発表
既製品は街にあふれ、針と糸を使わないでも、たいていの用は足りる、便利な世の中である。それにも拘らず、家庭科の授業が始まった小学五年のとき以来、いつも裁縫箱が手元にある。大半は苦手な家事の中で、針を持つことだけにはさほど心理的抵抗がない。といっても、洋裁や和裁といった立派なものではなく、時々のつくろい物程度についてのことだが。これはふしぎ、何故か、と思い巡らすに。
幼いときから、顔かたちが似ていると言われて来た、父方の祖母は、自分で桑を摘んで蚕を育て、繭を煮て糸をつむいでいたそうだ。祖母は、私の生まれる一、二月前になくなって、数枚の写真のほかは何も残っていない。材料といっては、父の歌集に残るこの二首だけだ。
日の暮るる桑畑に母と桑摘みき大淀川べりの村に幼く
繭を煮て紡げる母のかたはらに幼かりき夢のごとおもふ
前者は「赤とんぼ」の「山の畑の桑の実を小籠に摘んだは幻か」を連想させるが、三木露風は明治二二年、父は三七年生まれで一五年の差があり、住んでいた所は兵庫県龍野と宮崎県生目とかなり離れていても、当時はどこにでもある風景だったのだろう。そうして紡いだ糸が、絹布になったかどうか「機織る母」という歌は残ってないので、分らない。※
【八木先生評】
桑の育つところなら、全国各地で蚕が飼われ、さまざまな規模で絹が生産されていたのでしょう。
「母上が織りてたびたる絹の帯 つねにはまかずしまひおきけり」(1930年27歳)
という父の若き日の歌を本日発見し、14年前に書いた文章が気になってきた。
80歳で逝った父の年齢に自分も近づくにつれて、読めば心に響く歌が増えたが、何か心が痛むような予感がして、本棚にある3冊の歌集に手を触れるのがためらわれたりする。