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明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

ゴルフ通信(6)全米女子オープンの感動

2021-06-08 21:14:50 | スポーツ・ゴルフ

とにかく試合前から選手達からも難しい難しいとは言われてはいたが、実際次から次へと選りすぐりの選手達が深いラフに苦しんでるのを見ていると、テレビの向こうから怨嗟の声が「うねり」になって聴こえてくるようで、まあ天気は良いのに試合は大荒れという状況である。密生したラフからチョロっと出すだけでも苦労する選手達を見るにつけ、ゴルフって楽しいはずじゃないんだっけ?、と主催のUSGAに嫌味も言いたくなってくるのは私だけではあるまい。そういえば、昨日は国内のツアーもやっていて、笠りつ子の久々の優勝で結構周りは盛り上がっていたが、余りにも「緊迫感のレベル」が尋常じゃなく違っていて、大人と子供の試合を見ている程の錯覚に陥ったのは事実である。そんな中、3日目にドライバーを握らず徹底的にフェアウェイキープのマネジメントで笹生を捉えたレクシー・トンプソンが、最終日前半にダボ2つと苦しんだ笹生に余裕の5打差をつけて独走していた。こんな状況ではいくら日本人の私でも、今年の全米女子オープンはレクシーで決まりかな?、とテンションも下がりっぱなし。試合は見ていたが「心ここにあらず」という放心状態だった。

ところが何故かトップで独走の筈のレクシーが、今日はドライバーを振りまくっているなと思っていたら、案の定後半ラフに捕まり出して何だか雲行きが怪しくなってきた(何故3日目のマネジメントを続けなかったのかは、謎である)。一方の笹生はパーを連ねて、開始早々に見舞われたダボのショックをじっくり治しながらも、徐々にバーディを狙おうかというまでに回復してくる。そしてレクシーが痛恨のダボを叩くと何と雌伏100年の我慢というか、死んだふりをしていた畑岡奈紗がジワジワと上がってきて、後半バーディを連発してとうとう「4アンダーでクラブハウスリーダー」になったじゃあないですか。こりゃスゲーことになってきたぞ!

こうなると終盤の数ホールは息詰まるショットに際どいパターの連続でトイレにも行けず、・・・というか録画再生の休止ボタンでちょっと止めておいて帰って来てまた見る、の最高緊張状態である。最近立て続けに放送される米ツアーは、CSの生放送だけに殆ど夜中の2時3時開始というのが非常に多い。私は今回も4日間全部録画で見たが、やはり日本選手が上位で頑張っていると、画面を見ていても「ハラハラドキドキが半端ない」のだ。一体これは何だろう?

私は選手がどこの国だろうが国籍には全くこだわらずに、試合そのものを楽しんできたつもりである。松山がマスターズで勝ったときも、純粋にゴルフというゲームを楽しんでいた。まあ松山自身、余り好きな選手ではないのも一つの理由であるが(日本のゴルフファンの皆様、ごめんなさい。別に松山の偉業にケチをつけるつもりは毛頭ありませんので)。よく選手が「日の丸を背負って」とインタビューで発言するが、何のことを言っているのか、正直言ってまるで理解できなかった。同じ日本人だからって、「あなたと私は赤の他人」である。ただ、どんなに大勢の前で優勝し拍手喝采を浴びようと、私の存在など「これっぽっちも知っちゃあいるまいに」なんて憎まれ口は、みっともないからやめておこう。優勝した選手の側から言えば、この瞬間に日本人全員1億2千万人が、「おめでとう!」と心からの祝福を贈ってくれているという実感を味わっているだろうし、この上ない喜びの絶頂に浸っているのは間違いない。この時の心理は(実際確かめたわけではないから想像だが)、素直に「みんな応援、ありがとう!」だろうと思う。自分を負ければよかったと思っている日本人は一人もいないというわけだから、完全無欠なヒーローである。

但し、今回はプレーオフの相手が「同じ日本人」の畑岡奈沙ということで、まあ有り体に言えば「畑岡のファン」にはちょっと申し訳なかったかな?、とは思っているかも知れない。それを言うならば笹生優花は日本人の父親とフィリピン人の母親とのハーフだから、フィリピン人1億人は間違いなく自分を応援しているわけで、その意味では、畑岡より更に祝福してくれる人数が多いとも言える。まあ、ブログで言うならば「2億個いいね」がついたと想像すればいいだろう。これはもう、アドレナリンがダダ漏れの解放状態である。

ではその興奮を私が共有出来るかと言うと、これはちょっと説明が要りそうだ。渋野あるいは松山あるいは笹生を例にとって、細かく検討してゆこう。

1、仲間意識
これは日本人同士ということで自然とコミュニケーションが出来る安心感があり、生活環境も同じということで、選手を身近に感じられる理想的組み合わせである。国とか県とかよりむしろ市とか町とかの郷土であれば尚更であろう。ただこれは祝福する人々が「本人を知っている」ということがポイントになる。知っている度合いが強ければ強いほど、喜びも共有しやすくなるわけだ。例えば松山のように普段生活する場がアメリカであれば、いつも食事に行くレストランのアメリカ人の店員から「おめでとう!」と祝福されるのと、見ず知らずの日本のファンから「おめでとう!」と言われるのでは、どちらが嬉しいかと聞かれればそりゃあ近所のアメリカ人の店員の方が感情が共有しやすいのではないだろうか。日本人だからどうだというのではなく、「選手とファンというのが一つの仲間意識で結ばれている関係」と言える。この場合はファンであれば、国籍や民族は二の次という意識が普通ではないだろうか。特に海外で生活している松山などは、そういう傾向が強いだろうと思う。肝心なことは「コミュニケーションの量と質」である。これは選手も観客も、お互いに何か共通のものを感じている間柄ということだろう。それは多分、「生活の場=共同体」であり「言葉が通じる」関係だと思う。八村塁は日本人で、大坂なおみは日本人じゃないという感覚は、その原因は「言葉が通じる」ことの差だろう。コミュニケーションは「仲間意識」を生む第一理由である。

2、日本人感覚
試合で二人の選手が戦っている。その戦いを「〇〇民族と〇〇民族との戦い」と見るわけだ。これは人々が応援するうちに「日本頑張れ!」という声になって出てくることを意味する。確かに松山の場合には、本人の意識の中にも多少なりとも日本を背負っているという気負いがあったことは、インタビューなどでも感じられた。勿論、個人としての勝利の喜びが殆どだとは思うが、その中に「自分は日本人だ!」という気持ちが重なり合っているような気がする。だが渋野や笹生に自分は日本人だという意識があったかと言うと、松山に比べれば「殆どない」という気が私はしている。これは、選手が生まれ育った風土や、日本が島国で普段余り外国人との交流がないなどの特殊な環境を考えると、選手の側に日本人意識があるというよりもむしろ、応援する側に「日本人に勝って欲しい」という、ナショナリズムを全面に押し出した国威発揚の気持ちが強いのは想像できる。

3、日本とは何か
ラグビーで日本が南アフリカに勝った、ということで「一気にラグビーブーム」が起きたのはつい最近の事件である。それまでは日本代表の文字に我々は『日本人または日本に帰化した人」の意味を見出していた。だから日本代表を応援することは日本を応戦することと同意義だったのである。ところがラグビーはそんな常識を破る「ワン・チーム」というシステムで戦っていたのだ。これじゃ「ただのクラブチーム」になっちゃうじゃないか!、と私は訝ってブログを書いたものである。いまやサッカーの有力クラブチームなど殆どの団体チームは国籍など関係なく(制限はあるだろうが)、世界各国から優秀な人材を集めて戦力強化を図っている。ただワールドカップだけは例外で、例えば日本代表は日本国籍を持つ人に限られているから、唯一「純粋に国力が試される」戦いなのだ。オリンピックが一種の「国家間の戦争を代替・競技化したもの」と言われる所以である。オリンピックはナショナリズムの「発揚の場」なのだと言える。ウサイン・ボルトの金メダルはすなわち、ジャマイカ人の世界最速を意味する。いや少なくともそう考える人が一般的だった。ウサイン・ボルトだけではない、ジャマイカ人は経済では低迷しているが、速く走ることでは世界一の能力を有する類まれな血統を持っているのだ。ウサイン・ボルトはジャマイカの誇りであり、彼の勝利は「ジャマイカの勝利」でもあった。この感覚は多少は曖昧になったとは言え、今でも根強く残っている感覚である。いや、ちょっと待て、それじゃ先程の個人が国籍より優先する、ということと食い違うではないか?。確かにその通りである。個人の喜びは、言葉や生活などのコミュニケーションに支えられた「小さな共同体もしくは家族・友人」とこそ、分かち合うものだ。選手は究極には、彼らの為に戦うのである。ではナショナリズムの根源は何処から来るのか。

4、血統という能力
唯一考えられるのが人間を規定している「血統」という考えである。昔から日本には「貴種」という考えが民衆の中に根強くあり、貴族制度の維持にもそれなりの役割を果たした。私が思うに「天皇制」なども、同じ貴種思想に根ざしてた過去の遺制である。まあ貴種というのは理論的裏付に乏しいが、少なくとも運動能力や一部の芸能関係については、その能力に「偏り」があるのは確かのようだ。その点で選手の能力とナショナリズムを結びつけるというのは少々身勝手な身内贔屓に近いものがあるが、強ち間違いとも言い切れないものがある。血統と言えば競走馬みたいで人聞きが悪いが、民族が受け継いだ優秀な特質と考えれば気分は良い。その遺伝子を少なからず「自分も持っている」とぼんやりとでも感じていれば、ここで初めて民族を同じくする「仲間意識」が生まれると言える。私にとっての「日本」は同じ言語を使用し、生活や風習を同じくし、黙っていても普通にコミュニケーションが取れる間柄としての仲間意識を持っている「共同体としての日本」である。一方、それらが同じであっても、飛び抜けて足が速いとか目が良いとか、または物凄く力持ちであるとか手先が器用だとか、他の日本人に無い優れた遺伝的特徴を持っている人を見ると、これはやっぱり民族が違うのではないかな?、と思ってしまう。陸上短距離100m走のサニ・ブラウンやバスケの八村塁など、同じ日本人とは思えない素晴らしい能力を発揮している選手を見れば、どうしたって彼等にはどこか「日本人とは違う」ものを感じるのは否定できないだろう。それは、大坂なおみのNYオープン優勝の時に書いた私のブログ記事にハッキリ出ている。彼女を日本人と言うのには何としても違和感があったのだ。

結局、「個人」として応援するのではない限り、残る要素は「民族意識」だけである。個人として応援するというのは、選手とどこかで仲間意識が生まれるような共通のものを持っていることが前提になる。普通はそのような共通のものは無いから「選手とファン」という一般的な関係にならざるを得ない。もしフィールドに誰もファンとして応援する選手がいなかった場合(これは全米オープンのような一般の人にも話題性のある試合の場合に起きる現象だが)、ついつい「残る要素」として担ぎ出されるのが「同族意識による応援」なのである。他に応援する要素がないから無理矢理「日本人」というワードで盛り上げようとしているわけである。見ている観客も、ついついそれに乗せられて「日本人が優勝した!」と祝福ムードに湧きかえる。しかし我々は優勝した笹生優花とは「実は、関係は何も無い」というのが正しいのだ。選手と祝福する観客の関係、それ以上でもそれ以下でも無い。

もし笹生優花が私と同じ新幹線に乗っていたら「優勝おめでとう!」ぐらいは言うかも知れないが、彼女を「日本人の誇り」と感じる事はないだろう。笹生優花は日本人だけで独占するべきではないし、日本人特有の「島国根性の鬱憤の吐口」に利用するのは間違っている。何より彼女は、既に「世界の笹生」として新しい一歩を踏み出しているに違いないからだ。

ようやく私の違和感が解決した。テレビでは相も変わらず「日本人同志の奇跡の対決!」と必死に持ち上げているが、そういう見方はもう「完全に時代遅れ」である。もう樋口久子が全米プロに勝った1977年の日本ではないのだ。世界に追いつき追い越せと国民全員が一丸となって日夜頑張っていた頃の「東アジアの貧乏弱小国日本」と言うイメージは、今や完全に払拭されている。いわば日本人は、既に「世界と友達」の関係にある。今更日本人がどうこう言ってるレベルではないのだ。そう言えば、ジャンボ尾崎で同門の「原英莉花」が笹生の勝利を「まだ見ていない」と答えたそうだ。原と笹生は同じフィールドで戦っている。

・・・あれ?、これじゃ日本女子ツアーはどういう位置になるわけ?

まあ、笹生のアメリカ行きで日本人有力選手がこぞってアメリカに挑戦することになるだろうから、日本ツアーが世界の2部ツアー扱いになって、「韓国の二の舞」にだけはならないことを、心から祈る!


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