明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

酒のツマミ話(8)飲食店は何故目の敵にされるのか?

2021-06-11 14:21:11 | ニュース

1、見捨てられ、忘れ去られた飲食業
ちょっと前までは「開催か中止か」と国会でも騒いでいたのが、ここへ来て「ウソのように」世論がオリンピックモードに変わっている。もはや開催するかどうかではなくて、「観客を入れるかどうか」に興味の中心が移ってきた。これもワクチンの接種が加速している成果なので、そろそろコロナとの戦いは「峠を越した」感が出てきたのである。これは1にも2にも東京を始めとして、徐々に新規感染者が減ってきている事実が気持ちの上で大きい。現在確かに緊急事態宣言は継続しているが、実は誰も政府の対策など「信用していなく」て、毎日発表される新規感染者数を自分なりに計算し、「今は気をつけて我慢する」とか「たまには外食してみるか」などと一つずつ判断して、慎重に行動を変えているのである。そんな状況の中、多くの人は「東京オリンピック」で盛り上がろうと、様子を見つつも待ち構えている状態であるのは間違いない。こういう「国を上げての一大イベント」というのは、ここ久しく全く無かったのだから「無理もない」だろう。世界だって待ち望んでいる筈である。菅首相も11月初めには全国民にワクチン接種を完了する、と宣言した(加藤官房長官は根拠なしと言っているが、最近政府内で意見調整が出来ていないのが気になるけどね)。

そこで、唯一尾身会長や小池都知事等からコロナ蔓延の元凶と名指しされ、世間からも不要不急産業の見本みたいに思われて、ついには「見捨てられた」飲食業の行く末が気になる。最近はすっかり忘れられて話題にも上らなくなった感があるが、居酒屋などは一時のパチンコ業界のように「メディアや市民から叩かれ」た挙げ句、とうとう壊滅状態だと聞いている。私の地元の柏でも、細々と営業を続けている店もあるにはあるが、全体に元気がなく、客足がピタッと止まって軒並み死にそうな暗い雰囲気だ。これで近々緊急事態宣言を解除されたとしても、またオリンピックまでは「蔓延防止措置」で酒類提供禁止を継続するとしたら、もうこらえ切れずに蓄えを使い果たして「閉店・廃業する」ところがドバドバ出るのは必至である。世間はオリンピックでワッショイワッショイだが、その陰で泣きながら夜逃げしていく飲み屋が大量に出るとすれば、何の対策もして来なかった「小池都知事の責任」は万死に値すると言うべきであろう。いつの世も「幸せ」は富裕層と権力者に集まり、「シワ寄せ」は弱者の所に集まってくる、というのが世の習いみたいである。どうも小池って政治家は、我々の方には「顔は向いてない」よね。

この際さっさと「ワクチンパスポート」を導入し、接種を済ました人は「飲み屋もオッケー」にしたらどうなのか?。政府もオリンピックやる位の度胸があるのなら、その程度の思い切ったコロナ対策が必要だと思うけど、如何?

2、健康は外出にあり
この所急激に気温が上がってきて、我が家もたまらず「エアコンの除湿をオン」にした。しかし、ずっと外出せずに家でじっとしていたお陰で、何か身体が思うように調子が出ない。朝から気分がどんよりして、何もしないうちに一日が終わってしまう。これは高齢者に特有の「いわゆるコロナ病」ではないだろうか。そもそも「外出する」ということは、相当に身体に影響を及ぼしているみたいである。紫外線を浴びるメリットは間違いなくあるが、それより私は「外出して」人混みに揉まれることにより、外界の動きを察知して自分の行動を選択するという「動物本来の感覚」が戻ってくることが大事なのだと思っている。SmartNews によると、実は「畜牛」は、野生の牛に比べて脳が小さいことが科学の研究でわかったという。黙っていてもエサを与えられて狭い部屋に押し込められて生きていると、「将来の希望やワクワクする未来」も考えられなくなり、一つの物体のようになって脳も次第に萎縮してしまうのかな。やはり「動物」である我々人間は、「生きる能力」の維持には「危険と隣合わせ」の環境にいることが必須なのであろう。

ちなみに最近、ちょくちょくドトールにアイスコーヒーを飲みに行くようになった。それにつれて身体の切れも戻って来たような気がする。やっぱ人は、外に出ないといけないね。

3、感心したドラマの題名
最近のテレビ欄で最も感心したのが「いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう・・・」だった。ドラマ自体は見たわけじゃないが、どうも中身は「それほどでもない」ようだ。しかし題名が「いつか」という未然形を使うことで未来を予測し、それに対して「きっと」泣くだろうと確信している文章がとても秀逸で、いずれ才能のあるコピーライターの作だろうと密かに想像している。まあ恋愛映画というのは青春の象徴だから今更新しいものを観たいとは思わなくて、私は古い映画の「めぐり逢い」(ケイリー・グラントとデボラ・カー主演の名作)など、DVDを買い集めては時々見直してボロボロ泣いている。たとえ今風の恋愛映画を観て感動したとしても、その高揚した気持ちを共感してくれる人が「同じ年代」にいないのでは、どうにも時代に取り残された気分になって発散出来ないのだ。やはり映画は、観た後で友達と「よかったよね〜」と感想を言い合うのが楽しいのである。それにしても、この題名のような恋を一度はしてみたい、と思う気持ちは誰にでもあると思う。

4、日向坂の渡邉美穂、めっちゃ可愛いじゃん!
人気番組「しくじり先生」に出てた日向坂の女の子、この所続々と出てくる女性アイドルの中でもピカイチの愛くるしさである。少しキャラに毒が無いので自分から話題になっていくタイプではないと見たが、イジられた時に見せる慌て振りが超可愛いので、しばらくは彼方此方で引っ張りだこになるのは間違いない。もしかすると早々とCMに起用されたりするかも知れないので、皆さんチェックして見て下さい!

5、和歌の心
こないだテレビで藤原道長を取り上げていた。中身はありきたりの話だったが、そのタイトルコールで流れた有名な「望月の歌」、について一言いいたいと思った。

NHKでは
① この世をば
② わが世とぞ思ふ
③ 望月の欠けたることも
④ なしと思へば
と、分かち書きして画面表示していたが、私はこの望月の前で「ひと区切り」を入れる読み方が気に入らないのである。最近このような読み方をする人があちらこちらのメディアに出てきて不快極まりないのだが、世の中の和歌愛好家はどう思っているのであろうか。一応名の通った学者や本家本元の短歌作家たちは「よもや」とは思っているが、それすらも反論の嵐が巻き起こっているという話は聞こえてこないから、実に心もとない。

ここは
① この世をば
② わが世とぞ思ふ 望月の
と一気呵成に読み切り、ひと区切りいれてから「下の句」にかかっていくのが正しい鑑賞の仕方だと思う。

確かにこの句の意味からすれば「わが世とぞ思ふ」で区切るのが正確な文章読解の方法である。大凡の意味は、「この世はまるで私のためにあるなあ」というのが結論で、何故そう思うのかという理由が「満月は一片の欠けたところも無い完全な円である」という、当たり前の事実との相似点に気付いたからなのだ。何一つ「まだもう少し」という不満な所が「ひとつもない」のである。これは満月と一緒だ!(望月という言葉を使っているのが、また和歌らしくていいのだが)という認識の表明である。意味は確かに望月の前で区切るのが正当だ。

だがこれでは和歌じゃなくなって、ただの理屈っぽくてつまらない「平文」になってしまう。575ー77というのが昔からの短歌の「リズム」である。このリズムは、字句の響きや意味の重なり・倒置などの技法も含めた「詩の重要な要素」なのだ。そして、リズムの流れ・区切りに「わざと反して」望月の〜と「ずらした」ことにより、聞く側の人々の頭には一瞬「?」という感情が生まれる。作者はこの世の中を自分のものと思っていることと「望月」とを、どう結びつけるのだろう?、という疑問が頭をよぎるはずだ。これは音楽で言えば「一瞬の休止」の後に、ドッカーンと最高潮が来るようなものである。これは作者が観衆の受けを狙って仕掛けた「作歌技術」の見せ所なのだ。「17文字しかない和歌」という究極に制限された形式の中で、まあ大した技術ではないが、彼が精一杯駆使した部分である。その作者と観衆の「駆け引き」を無視して、つまらない学者風の読み方で「台無し」にする、というのでは全く私には理解できないと申し上げたい。

このような読み方を漫然と繰り返している「凡庸な学者・作歌達」には、即時訂正と猛省を促す!


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