私のnoteを読んでいる人はまた「罪と罰」の話しなのかとお思いでしょうが
「罪と罰」が宗教的
それもキリスト教だから分からない
と投げ出す人がいたので簡単に救いの部分のみ
私の分かった事を書きます。
<主人公ラスコーリニコフは、自分はナポレオンのように特別なので
人を殺しても良いと考える。
そして金貸しのおばあさんを殺してしまう。>
⚜シェイクスピアは、金貸しの商人シャイロックを嫌な取立人として
書いている。金貸しは血も涙も無いという有名な小説「ベニスの商人」
の存在をドストエフスキーは最初に浮かんだのだろうか。
<やってもよいと思った人間だけでは無く
巻き添えに目撃者を一人殺してしまう。>
小説は長く色々な要素が入っているのですが
ここでは救いの部分を取り上げます。
ソーニャという娘は、飲んだくれて家にお金を入れない父親
の代わりに自分の身体を犠牲にしてお金を稼いでいた。
そのソーニャに罪を告白するのは不思議ではない。
イエスキリストは、[自分の身体を犠牲]にして人々の罪を受け止め
殺される。その姿に心を打たれるのがキリスト教信者である。
そしてイエスは「聖霊の神々に感謝し正しく生きなさい。罪は認めて神に許しを求めなさい。神が許せばあなたの心は軽くなり救われるでしょう。」
という教えを説く。
ソーニャは父親の罪を背負い、家族を養っていた。
聖書も真摯に読める娘だった。
ラスコーリニコフは人間の中では、ナポレオンみたいな偉大な人間だと
自負していたのだが、ソーニャはさらに自分を超えた人間なのだと
理屈では無く
子供の頃に読んだ聖書の言葉とかぶり感じ取ったのだ。
しかもイエスはマグダラのマリアを従えている。
ソーニャがいわくつきの聖書を手に取り読むその空間は
見事なまでにラスコーリニコフがまだ犯罪の事を考える以前に通っていた
キリスト教会と同じ空間ではないか。
そしてソーニャは
「あなたはみんなの前で告白しなさい。大地に接吻しなさい」
と言う。
ラスコーリニコフはその通りの事をすると誓う。
⚜大地というのも深い理由がある。
あなたより存在の大きい神にひれふし許しを請いなさいというのだ。
バベルの塔なみにおごり高ぶっているけれどあなたはそうではない
という事を行動で示せという
イエスに近い存在のソーニャに言われれば
それに従うのは当然である。
小さい頃
無垢な心の時にそういうものに触れていたからこそ
ラスコーリニコフは思わず告白したのだと思います。
今ふと
映画「愛のむきだし」を思い出しました。
両方とも主人公達が、なんやかんや宗教に洗脳されているのですけれど
苦しんでいる人間のこころの救いになっているので
見たり読んだりした者も
「良かった」
という気持ちになったりするのですね。