幼稚絵NJU

幼稚絵NJU(MONJU NO CHEST) ブログ

「ミステリと言う勿れ」アイビーハウス編~うその時間は総合的に何秒

2022-03-08 10:20:01 | 日記
※アイビーハウス編のネタバレ注意。知りたく無い人は読まないで下さい。



⁜スマホ版で見て字の大きさが小さめの部分は自分の文の添付です。
 PC版では逆です。





※整は対象者の心をいつも優しい解釈で救おうとするのだが、今回は
橘高のもっと狂気に変化してしまっている部分を指摘したいのです。
あと橘高は、公衆電話を使ったり近くで物を買ったり
全く整合性の無い犯罪を行っている。
監視カメラや店の定員の目は考えなかったのか。
そう思うとそもそも犯罪なんて出来ないはずだ。


※橘高は自分のミスを隠した時点で、周りのみんなに嘘をついている
事になる。友達には特に。
だから壊れてしまったのか。


※最後に介護がつらかったんだとか言い訳を並べていたが
喜和と同じ人間、喜和を失くして辛い思いをしている
人達を増やして良いわけが無い。
公務員なのでなおさら罪は重くなるはずだ。
架空のキャラなのに怒りがわいてしばらく怒りが静まりませんでした。



↑原作を読んでいないので分からないのですが、見えた部分で推測すると
整は小さいながら哀しい過去を持ち心理ケアの女性に出会った。
ダンゴムシになっちゃうほど何も考えられない整に心のケアをする喜和は

「蟻をみてごらん
考えてみて人に話して
(他にも)」

と課題を言い、整は自分以外のものに向き合うという手段を持てた。

そうしないとこの子供は一生心を閉じ込めた状態になっていた
からであろう。





殺人幇助は、犯行をする人間の行為で完結する。
しかし他にも個人情報漏洩の罪もある。
被害者が死んだ場合でも
生活困難になった場合でも
「自分はなにもしていない」
としらをきる人間は特定班にもいるだろう。
逮捕をして欲しい。

このような行為は
自分への罰を受ける覚悟をしなければならない。
そこに[こいつは死んでも良いんだ]
という言葉の誘導があれば、殺人教唆になる。
勿論その時の証拠がなければ立証はされない。


橘高のなにが虫唾が走るのかというと

隠れて犯罪行為をしている姿
他人に殺人行為をさせてすっきりしているところです。









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環境による干渉~ある画家の数奇な運命 2

2022-03-07 14:34:43 | 日記
※引き続き映画「ある画家の数奇な運命」多少ネタバレありなので、
未見で内容を知りたくない方は読まないで下さい。


東ドイツは西の文化を懸念しベルリンの壁を作る。
こうして民主主義的なドイツと東ドイツが分断される前に
クルト(主人公)は西に逃れる。
実はその時期を過ぎると壁が完成し一般人が西ドイツに行こうとすると
射殺される時代になるのです。

クルトはなんとか自由な身になった。

⁜で、なんですけれど
北海道も危なかったんではないかという話しがあります。
ソ連統治の北海道だったらそこは現在日本では無かったのかもしれない。

北方領土問題はまだ残っているんですけどね。




クルトはアメリカの映画を観て自由を謳歌する。
そして西の美術学校に入ります。

芸術で自由を表現する学校。
「キャンバスに描くなんて古いよ」
と学校の友達に言われてしまうクルト。
みんなに影響を受けてクルトも様々な表現を考えます。

しかしその時代のアートだって 
はやりのものに感化されただけでは

やはり環境により干渉された作品でしか無いんですよね。

学校の教授は、クルトの無口なのに 
もの言いたげな深いまなざしを見て 
何かを感じ取ります。

ある日教授は、みずからの原点を告白します。

そしてクルトに
「自分の絵を描きなさい」
というのでした。

クルトの原点。

それは美しく、真実を語り 
この世のすべてから目をそらさないで
と叔母に教えられたという幼い頃の記憶。

クルトはそれを表現していく。





この映画のモデルになった画家リヒターとドナースマルクの
喧嘩話しも読みました。
ドナースマルクはかなりの聞き上手らしく、リヒターから
色々なはなしを聞いたようです。
叔母さんの影響で今の自分がある事、叔母さんがどうなったのか
そして妻の父親のはなしは割と事実に近いようで
それがいやだったみたいです。そこに監督の分析も入れたので

「精神科医が患者の本質を言ったので患者がカッとなったのと同じじゃないか」

と監督が言っておりました。ただし
「わたしもそういう事をされたらおこるだろうね。
とくに自分のナイーブな部分をやられると」
というような事をいっておりました。

これが自分と、他人に決められるのは名監督であっても
嫌なんですね。クルトの妻のお父さんだったらもっと怒りで我慢できない
と思いますが。

環境による干渉1
で書いた文の中にチェコの事を書きましたが
先ほど詳しく調べたら
周りの国に長い間干渉されていて
とくにドイツからの時期が長く共和国の時期があり
次にソ連社会主義になったり
スロバキアと色々あったり相当複雑でした。

あのあたりの歴史を調べると最近の戦争の事まで分かるかも
しれませんよ(これは適当です)








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環境による干渉~ある画家の数奇な運命 1

2022-03-07 10:46:58 | 日記
映画「ある画家の数奇な運命」
※ネタバレ注意 知りたくない人は読まないで下さい。

退廃的美術館で、館員が一枚づつ説明するところから始まる。
少年は叔母さんに連れられて来たのだ。

↑私の文コピペです。
自由な絵 国を批判する絵は悪という説明をするナチス。

その環境で悪と決められるものたちが必ず存在する。

少年の叔母さんはそちら側の人だった。

自分には受け入れ難い環境に、叔母さんは言葉を残す。
「よく見て。真実は美しいのよ」
そして混乱と自分との戦いにより一時錯乱状態になる。
身内は心配になりナチの公的機関に連絡をする。
ドイツ市民なので治してくれると信じていたのだ。

病院に入れられた叔母さんの元気な姿を確認したいので
お見舞いに家族のみんながナチの正装をして行く。
(少年の父親はナチの入党を拒む人間だったが、この時だけナチのバッチを
つける)
しかし受付の女はもうその患者はここにはいないと言う。
不安になり泣き崩れる家族の傍で少年は看護師達の楽しそうな
記念撮影風景をながめるのであった。


数年経ち、少年はやはり絵の学校に通う。




ソ連(現ロシア)のためになるような絵ばかりを描かされる。
画法は社会主義的リアリズムのみ。
主人公は褒められる絵ばかりを描く。
しかし疑問を持つ。

実はソ連には、よく考えるとソ連体制への批判ではないか?
と思われる映画やアニメがあります。

ソ連統治であったチェコでもアニメが多く作られ
そういうものの中には、深く考えると
色々なメッセージが隠されているものがあったりする。
それを分かりやすく表現をすると国家警察にすぐ気づかれ
それだけで逮捕監禁されてしまうからだ。

ソ連では有名な映画監督でも作品の内容によっては逮捕される。
興味がある方は独自で調べてみて下さい。


※絵に興味が無い人は、叔母さん 叔母さんの運命を決めた産婦人科医
そしてその家族と主人公の関係についての方が興味があるのでしょうが
その部分はカットしました。

※誤字がありましたので修正いたしました😅
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小説「罪と罰」の救いの部分について

2022-03-03 09:31:39 | 日記
私のnoteを読んでいる人はまた「罪と罰」の話しなのかとお思いでしょうが

「罪と罰」が宗教的
それもキリスト教だから分からない
と投げ出す人がいたので簡単に救いの部分のみ
私の分かった事を書きます。

<主人公ラスコーリニコフは、自分はナポレオンのように特別なので
人を殺しても良いと考える。
そして金貸しのおばあさんを殺してしまう。>

⚜シェイクスピアは、金貸しの商人シャイロックを嫌な取立人として
書いている。金貸しは血も涙も無いという有名な小説「ベニスの商人」
の存在をドストエフスキーは最初に浮かんだのだろうか。

<やってもよいと思った人間だけでは無く
巻き添えに目撃者を一人殺してしまう。>

小説は長く色々な要素が入っているのですが
ここでは救いの部分を取り上げます。

ソーニャという娘は、飲んだくれて家にお金を入れない父親
の代わりに自分の身体を犠牲にしてお金を稼いでいた。
そのソーニャに罪を告白するのは不思議ではない。

イエスキリストは、[自分の身体を犠牲]にして人々の罪を受け止め
殺される。その姿に心を打たれるのがキリスト教信者である。
そしてイエスは「聖霊の神々に感謝し正しく生きなさい。罪は認めて神に許しを求めなさい。神が許せばあなたの心は軽くなり救われるでしょう。」
という教えを説く。

ソーニャは父親の罪を背負い、家族を養っていた。
聖書も真摯に読める娘だった。

ラスコーリニコフは人間の中では、ナポレオンみたいな偉大な人間だと
自負していたのだが、ソーニャはさらに自分を超えた人間なのだと
理屈では無く
子供の頃に読んだ聖書の言葉とかぶり感じ取ったのだ。
しかもイエスはマグダラのマリアを従えている。

ソーニャがいわくつきの聖書を手に取り読むその空間は
見事なまでにラスコーリニコフがまだ犯罪の事を考える以前に通っていた
キリスト教会と同じ空間ではないか。

そしてソーニャは
「あなたはみんなの前で告白しなさい。大地に接吻しなさい」
と言う。
ラスコーリニコフはその通りの事をすると誓う。

⚜大地というのも深い理由がある。
あなたより存在の大きい神にひれふし許しを請いなさいというのだ。
バベルの塔なみにおごり高ぶっているけれどあなたはそうではない
という事を行動で示せという
イエスに近い存在のソーニャに言われれば
それに従うのは当然である。

小さい頃
無垢な心の時にそういうものに触れていたからこそ
ラスコーリニコフは思わず告白したのだと思います。

今ふと
映画「愛のむきだし」を思い出しました。

両方とも主人公達が、なんやかんや宗教に洗脳されているのですけれど

苦しんでいる人間のこころの救いになっているので

見たり読んだりした者も
「良かった」
という気持ちになったりするのですね。






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