治療院に通われている大学の先生がお書きになったエッセイを紹介します。
★病むということ、生きるということ★
私は今、がんと共存していることを隠して生きるつもりはありません。このような考えに至ったのは、数年前に訪れた北海道浦河にある統合失調症などを抱える人たちが暮らす共同体「べてるの家」との出会いからです。
「べてるの家」のケースワーカー向谷地生良さんは、「「弱さ」という情報は、公開されることによって、人をつなぎ、助け合いをその場にもたらす」と言います。世を挙げて個人情報保護の時代ですが、弱さをプライバシーとして隠すことによって、人はつながることを止め、孤立し、反面、生きづらさが増すとも言っています。私はこのような考え方に深く共感していたので、自分が死と隣り合わせの病気を発病したときに、迷わず自分も「べてる流」に生きてみようと腹を決めました。
「べてるの法則」では、「弱さと弱さ」が集ると本当の「強さや優しさ」が生まれ、逆に「強さと強さ」の結合は最も脆い組み合わせとされています。私自身、患者という「弱者」になってみて、今までには実感し得なかったこの「弱さを絆」とした人間関係の豊かさを深く味わう毎日です。
同時に今、私はがんをたたくのではなく共存しながら生を全うしたいと願っています。これは、異質な存在とどう向き合うべきか、つまり自分にとって厄介なもの、見たくないものを徹底的に排除するのか、それとも別の生き方をとるのか、という問いに対する私なりの答え、ハンセン病を学んで得たひとつの人生観です。その人生観・思想を、自らの身体においても生き抜いてみたいというのが、今の私の願いです。
ハンセン病療養所多磨全生園で一番親しくしている「おかあさん」(私とは親子ほども年が離れている信仰の友)が、私の発病に続いて自身もがんになってしまい、退院してからしみじみ私に語ってくれました。「振り返ってみれば、あれもこれも偶然ではなく、みんな神様が備えてくださった最善だったね・・・」と。どんな状況にあっても、希望と課題に向かって努力することが人生の目的であって、がん治療それ自体が生きる目的ではないから、がんに支配されない生活を送りたいねと、互いに励ましあっています。
ひと月前、彼女は電話の向こうでこんな詩も紹介してくれました。河野(こうの)進牧師の書いた短い詩です。タイトルは「呼吸」。
呼吸
天のお父さま
どんな不幸を吸っても 吐く息は感謝でありますように
すべては恵の呼吸ですから
彼女と私は今、すべて神が備えてくださった最善の時を呼吸している、そのような実感を、病というお互いの「弱さ」ゆえに分かち合っています。
神は困難の中にある人、周縁に置かれている人、弱くされた人、一人ひとりありのままの人間を愛してくださいます。理想的な人間ではなく、限界があり、病んでいる人間を、そのまま愛し、背負い、救い出してくださる(イザヤ書46章3~4節)。
その現実を、具体的に歴史の中に示してくださったのが、イエス・キリスト誕生の出来事です。今から2000年も前に、ユダヤのベツレヘムに、「強さ」の象徴を何一つ持たないイエスが生まれたということ、これは偶然ではなく、最善の、神から私たちへの贈り物です。
イエスは、人を人として見ないような時代や社会に対する批判的精神を持ちつつ、つぶされるばかりの苦しみの中にある人々を背負い続けました。私たちが本当に解放されていくのは、強くなることにおいてではなく、支えあうことにおいてです。安心して「弱さ」を誇り、あのイエスの歩みにつながっていきたいと思います。
(K大学 教員 荒井英子)
僕はこのエッセイを読んでいて目頭が熱くなりました。いろんなことをはたと気付かせて頂きました。
弱くてもいいこと。逆に弱いことが人と人を結びつけあうという意味で大きな力があること…。前にべてるの家のことを聞いたことがありましたが、その時は僕の耳をすり抜けていってしまったようで肝腎なことを掴めていなかったようです。向谷地生良さんの言葉はすっと体に入ってきます。
また、がんと闘わず、がんを敵視しないでくださいとはよく言われますが、荒井先生はご自分の人生観と重ねて、まさにそれを実践されている…その点にも感動しました。
>どんな状況にあっても、希望と課題に向かって努力することが人生の目的であって、がん治療それ自体が生きる目的ではない
噛みしめたい言葉でした。
>私たちが本当に解放されていくのは、強くなることにおいてではなく、支えあうことにおいてです
これからの時代、日本だけでなく世界中の人々の行動指針にしたいのが「支えあうこと」でしょう。弱くていいから支えあうこと、病との接し方だけでなく、生き方までにもヒントを与えてださるエッセイだと思ったので紹介させていただきました。
ネット上に実名で公開することを快諾してくださった荒井英子先生に改めて感謝申し上げます。
★病むということ、生きるということ★
私は今、がんと共存していることを隠して生きるつもりはありません。このような考えに至ったのは、数年前に訪れた北海道浦河にある統合失調症などを抱える人たちが暮らす共同体「べてるの家」との出会いからです。
「べてるの家」のケースワーカー向谷地生良さんは、「「弱さ」という情報は、公開されることによって、人をつなぎ、助け合いをその場にもたらす」と言います。世を挙げて個人情報保護の時代ですが、弱さをプライバシーとして隠すことによって、人はつながることを止め、孤立し、反面、生きづらさが増すとも言っています。私はこのような考え方に深く共感していたので、自分が死と隣り合わせの病気を発病したときに、迷わず自分も「べてる流」に生きてみようと腹を決めました。
「べてるの法則」では、「弱さと弱さ」が集ると本当の「強さや優しさ」が生まれ、逆に「強さと強さ」の結合は最も脆い組み合わせとされています。私自身、患者という「弱者」になってみて、今までには実感し得なかったこの「弱さを絆」とした人間関係の豊かさを深く味わう毎日です。
同時に今、私はがんをたたくのではなく共存しながら生を全うしたいと願っています。これは、異質な存在とどう向き合うべきか、つまり自分にとって厄介なもの、見たくないものを徹底的に排除するのか、それとも別の生き方をとるのか、という問いに対する私なりの答え、ハンセン病を学んで得たひとつの人生観です。その人生観・思想を、自らの身体においても生き抜いてみたいというのが、今の私の願いです。
ハンセン病療養所多磨全生園で一番親しくしている「おかあさん」(私とは親子ほども年が離れている信仰の友)が、私の発病に続いて自身もがんになってしまい、退院してからしみじみ私に語ってくれました。「振り返ってみれば、あれもこれも偶然ではなく、みんな神様が備えてくださった最善だったね・・・」と。どんな状況にあっても、希望と課題に向かって努力することが人生の目的であって、がん治療それ自体が生きる目的ではないから、がんに支配されない生活を送りたいねと、互いに励ましあっています。
ひと月前、彼女は電話の向こうでこんな詩も紹介してくれました。河野(こうの)進牧師の書いた短い詩です。タイトルは「呼吸」。
呼吸
天のお父さま
どんな不幸を吸っても 吐く息は感謝でありますように
すべては恵の呼吸ですから
彼女と私は今、すべて神が備えてくださった最善の時を呼吸している、そのような実感を、病というお互いの「弱さ」ゆえに分かち合っています。
神は困難の中にある人、周縁に置かれている人、弱くされた人、一人ひとりありのままの人間を愛してくださいます。理想的な人間ではなく、限界があり、病んでいる人間を、そのまま愛し、背負い、救い出してくださる(イザヤ書46章3~4節)。
その現実を、具体的に歴史の中に示してくださったのが、イエス・キリスト誕生の出来事です。今から2000年も前に、ユダヤのベツレヘムに、「強さ」の象徴を何一つ持たないイエスが生まれたということ、これは偶然ではなく、最善の、神から私たちへの贈り物です。
イエスは、人を人として見ないような時代や社会に対する批判的精神を持ちつつ、つぶされるばかりの苦しみの中にある人々を背負い続けました。私たちが本当に解放されていくのは、強くなることにおいてではなく、支えあうことにおいてです。安心して「弱さ」を誇り、あのイエスの歩みにつながっていきたいと思います。
(K大学 教員 荒井英子)
僕はこのエッセイを読んでいて目頭が熱くなりました。いろんなことをはたと気付かせて頂きました。
弱くてもいいこと。逆に弱いことが人と人を結びつけあうという意味で大きな力があること…。前にべてるの家のことを聞いたことがありましたが、その時は僕の耳をすり抜けていってしまったようで肝腎なことを掴めていなかったようです。向谷地生良さんの言葉はすっと体に入ってきます。
また、がんと闘わず、がんを敵視しないでくださいとはよく言われますが、荒井先生はご自分の人生観と重ねて、まさにそれを実践されている…その点にも感動しました。
>どんな状況にあっても、希望と課題に向かって努力することが人生の目的であって、がん治療それ自体が生きる目的ではない
噛みしめたい言葉でした。
>私たちが本当に解放されていくのは、強くなることにおいてではなく、支えあうことにおいてです
これからの時代、日本だけでなく世界中の人々の行動指針にしたいのが「支えあうこと」でしょう。弱くていいから支えあうこと、病との接し方だけでなく、生き方までにもヒントを与えてださるエッセイだと思ったので紹介させていただきました。
ネット上に実名で公開することを快諾してくださった荒井英子先生に改めて感謝申し上げます。
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