三日間、伊勢神宮をお参りした。土日の喧騒の中では味わえなかった身の引き締まる感覚は月曜の早暁の参詣で体験できた。特に内宮の御正殿には礼ののち20分くらい衛士に怪しまれながらもそこに佇んで清冽な空気を堪能してきた。
御正殿は千古の杉の巨木に囲まれ、早朝の凛とした空気の中に千木(ちぎ)や鰹木(かつおぎ)が朝日を受けて輝いていた。森が呼吸をして豊かに吐き出す清い精がそこには溢れていた。その香りは6年ほど前に訪れたアメリカのヨセミテバレイでの早朝に味わった針葉樹のフィトンチッド溢れる空気と同じだった。
深い森が大好きな僕にはいつまでも居たい空間だった。聖なる場所であり光の柱が天中までそびえ立っているのではないかと思った。見える人が見ればそう見えるのではないかと思う。
導かれるままに伊勢まで行き、そして自分を活かすよう誓うお祈りを捧げてきたが、最後の最後に心の底から別のお祈りをすることができた。それをすることが今回の僕の課題だったのだろう。遅々とした歩みだと自分でも思うけれども、手順を踏んで自分なりの正しい道を進んでいる気がしている。いつかこの肉体を離れた時に今回の伊勢参詣の意味を理解できることが楽しみだ。
(上の写真は人ひとりとしていない早暁の内宮神楽殿の前。写真をクリックするとその気配を感じられるでしょう)
御正殿は千古の杉の巨木に囲まれ、早朝の凛とした空気の中に千木(ちぎ)や鰹木(かつおぎ)が朝日を受けて輝いていた。森が呼吸をして豊かに吐き出す清い精がそこには溢れていた。その香りは6年ほど前に訪れたアメリカのヨセミテバレイでの早朝に味わった針葉樹のフィトンチッド溢れる空気と同じだった。
深い森が大好きな僕にはいつまでも居たい空間だった。聖なる場所であり光の柱が天中までそびえ立っているのではないかと思った。見える人が見ればそう見えるのではないかと思う。
導かれるままに伊勢まで行き、そして自分を活かすよう誓うお祈りを捧げてきたが、最後の最後に心の底から別のお祈りをすることができた。それをすることが今回の僕の課題だったのだろう。遅々とした歩みだと自分でも思うけれども、手順を踏んで自分なりの正しい道を進んでいる気がしている。いつかこの肉体を離れた時に今回の伊勢参詣の意味を理解できることが楽しみだ。
(上の写真は人ひとりとしていない早暁の内宮神楽殿の前。写真をクリックするとその気配を感じられるでしょう)