花、昆虫、風景など

日常感じる季節の諸々を、花、昆虫、風景などを通じてアップしていきたいと思います。

特別展 西国33カ所 観音霊場の祈りと美

2008年09月23日 | Weblog
奈良国立博物館に23日行ってきました。
何日かぶりの奈良だけど、午後の一時、近鉄奈良駅周辺はすっかり秋の気配が忍び寄っていました。
影を生かした照明の展示場は、すっかり霊の世界を醸しており、曼荼羅に顕(あらわ)された地獄は、そこに描かれた髑髏(しゃれこうべ)さえ真(まこと)かと見まごうばかりの迫力が有りました。
木に彫り抜かれた仏の眼色は鬼気迫る表情で私を射抜きます。
穏やかな顔の一つ一つが、その穏やかさ故に、鬼を感じさせるのです。
人は常に迷いに生きている。
彼ら仏像に形を変えた仏は仏師の手を借りて、既にそのことを見抜いて居るのです。
その肌は今にも息をするかと思えるほどに艶やかで、今正に生きている。

1000年の時を経て語りかける時代。
そこには空間を通り抜けた生き様が生々しく映されている。

時代は形は変えて繰り返している。

人は喩えどのような境遇にあっても生きる事も死ぬ事も拒めない。
その空に据えられた目線の落ちる所。
そこにこそ真実を見ているのです。

穏やかと人は言う。
救いがそこにあると人は言う。
しかしそれは仏と対峙し、苦しみ抜いた者が結果として見、そして感じたもの、則ち浄土に他ならない。

それにしても上人と呼ばれる人達の、人を呼び、力を結集させる業には驚かされる。
寄進、喜捨と呼ばれる一般の行為を呼ぶだけの生き地獄が、そこには現出していたのであろう。
曼荼羅が曼荼羅として生きていた時代。
今は正にそう言う時代なのに人々はその地獄に気付いていないのだ。
生きる糧に充足感を持つと言う事は人にとって果たして幸せな事なのか。

仏の表情に接しながら、流れに身を任さざるを得ない一般大衆の嘆きの海が荒れる事の無いよう鎮める術があるのかとふと思ってしまった一時であった。