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「井上井月(いのうえ せいげつ)」は、「柳の家井月」「北越漁人」などとも号し、近世の俳諧沈滞期「月並俳句の時代」にあって、芭蕉の再評価を目指した俳人だ。
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1822(文政5)年に「越後長岡藩」で生まれたとされるが、生い立ちや俳人になった経緯は知られていない。「北越」から「江戸」へ、「東海道」で「京」から「大坂」、そして「須磨」に至り、引き返して「伊賀」を経て、「美濃」から「北信濃」を行脚し、1858(安政5)年、忽然と「伊那谷」に姿を現したと言われる。
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同地では放浪の生活を続け、酒を好み漂泊を主題に俳句を詠んでいたという。いたるところで、昼寝もすれば野宿もする浮浪の生活で、俳諧趣味人の家や旧家から、酒食のもてなしを受けて日を暮したが、晩年には乞食の風体極まり、その風体から女性や子どもたちには、「乞食井月」と忌み嫌われていたと伝えられる。
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趣味人の男性たちの中には、師事する者もいたといい、影響を受けた後の時代の文人に「芥川龍之介(あくたがわ りゅうのすけ)」(1892/明治25年~1927/昭和2年)「種田山頭火(たねだ さんとうか)」(1882/明治15年~1940/昭和15年)「つげ義春(つげ よしはる)」(1937/昭和12年~ )などの名前もあがる。
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1884(明治17)年、井月の健康不安を心配する「塩原折治(梅関)」の配慮により、「上伊那郡美篶村末広太田窪」(現在の「長野県伊那市」)の「塩原家」厄介人として付籍し、「塩原清助」を名乗った井月だが、1886(明治19)年12月に路傍で行き倒れているところを発見され、塩原家で看病を受けるも、1887(明治20)年2月16日に66歳で没したという。「伊那谷」で句や書の理解者を得て、同地の土になった俳人だ。![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/35/a17a285b2fbbad2b4780953d36d91bfb.jpg?1602678416)
❖ 「伊那橋 控柱(袖柱)」句碑 国道153号線(旧道)の「伊那橋」控柱(袖柱)には、1939(昭和14)年5月3日、傾倒する井月墓参を目的に「伊那町」(現在の「伊那市」)を訪れた山頭火の「あの水この水の天龍となる水音 山頭火」(あのみずこのみずのてんりゅうとなるみずおと)の句碑が建つが、向かい合って「柳から出て行舟の早さかな 井月」(やなぎからでていくふねのはやさかな)が、2000(平成12)年7月に建立された。![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7e/c4/e6878a3cc89e3ba0541f37f448d76624.jpg?1602678482)
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/5a/471edea45153a3d538db0144f96804ac.jpg?1602678647)
❖ 「春近大橋 控柱(袖柱)」句碑 「県道209号沢渡高遠線」の「天竜川」に架かる「春近大橋」は、西側で国道153号とつながる長さ300メートル、幅員8メートルの橋梁だ。1991(平成3)年3月竣工のその「春近大橋」控柱(袖柱)には、井月の句がプレートになって埋め込まれる。
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❖ 「伊那橋 控柱(袖柱)」句碑 国道153号線(旧道)の「伊那橋」控柱(袖柱)には、1939(昭和14)年5月3日、傾倒する井月墓参を目的に「伊那町」(現在の「伊那市」)を訪れた山頭火の「あの水この水の天龍となる水音 山頭火」(あのみずこのみずのてんりゅうとなるみずおと)の句碑が建つが、向かい合って「柳から出て行舟の早さかな 井月」(やなぎからでていくふねのはやさかな)が、2000(平成12)年7月に建立された。
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❖ 「春近大橋 控柱(袖柱)」句碑 「県道209号沢渡高遠線」の「天竜川」に架かる「春近大橋」は、西側で国道153号とつながる長さ300メートル、幅員8メートルの橋梁だ。1991(平成3)年3月竣工のその「春近大橋」控柱(袖柱)には、井月の句がプレートになって埋め込まれる。
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「西春近側」は、向かって右「西南親柱」に「春風に待つ間程なき白帆かな 井月」(はるかぜにまつまほどなきしらほかな)、向かって左「西北親柱」に「礎は亀よはしらは鶴の脛 井月」(いしずえはかめよはしらはつるのはぎ)が選ばれている。
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「東春近」側は、向かって右「東北親柱」に「降りかくす麓や雪の暮さかい 井月」(ふりかくすふもとやゆきのくらさかい)、向かって左「東南親柱」に「暮遅き鐘のひゞきや村渡し 井月」(くれおそきかねのひびきやむらわたし)が選ばれている。![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/2f/e833f4a0520f65af88945027da6c8f4e.jpg?1602739796)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/40/69e3b47f58b03ff5b4b77df67ab48085.jpg?1602678685)
❖ 「蟻塚城跡」句碑 「六道の堤」が近傍の「県道207号美篶箕輪線」信号交差点「笠原」から車約5分にある「蟻塚城跡」は、「伊那市美篶笠原」にあって、築城時の原形が残る中世の山城跡だ。別名「中の城」ともいわれるこの城は、笠原集落東北の里山に全長約230メートル、標高差約40メートル、面積約4ヘクタールに広がり、各郭の間には空堀が巡らされる七段の雛壇式で、標高840メートルに至る山城という。詳細ははっきりしないが、室町時代はじめの14世紀前半、この地域を治めていた豪族の笠原氏によって築城されたといわれる。
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❖ 「蟻塚城跡」句碑 「六道の堤」が近傍の「県道207号美篶箕輪線」信号交差点「笠原」から車約5分にある「蟻塚城跡」は、「伊那市美篶笠原」にあって、築城時の原形が残る中世の山城跡だ。別名「中の城」ともいわれるこの城は、笠原集落東北の里山に全長約230メートル、標高差約40メートル、面積約4ヘクタールに広がり、各郭の間には空堀が巡らされる七段の雛壇式で、標高840メートルに至る山城という。詳細ははっきりしないが、室町時代はじめの14世紀前半、この地域を治めていた豪族の笠原氏によって築城されたといわれる。
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1952(昭和27)年、「二の郭」に「御射山社里宮」が建立されたが、その「御射山社里宮」右手裏に、井月の句碑「山桜古城の跡のあらしかな 霞むべき山は放れて夏木立 井月」(やまざくらこじょうのあとのあらしかな かすむべきやまははなれてなつこだち)が建つ。2014(平成26)年6月に建立された句碑の碑陰記には、「蟻塚城跡の風情に相応しい二句を選び 霞句は井月の真筆 山桜句は真筆が見当たらないので向山修氏が井月書から字を選び句に整えた」と記されている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/12/09/dcdb7f6abd5a069a8804da37b9d8ea56.jpg?1602678710)
❖ 「竹林苑庚申窪」句碑 「国道153号」信号交差点「(伊那)市役所入口」から車約3分、「伊那市西春近上島」の「県道146号線南箕輪沢渡線」脇「竹林苑庚申窪」碑の西側に、「竹風子の勉励を」の前書があって、「昼夜を分かたず働き続ける水車のような勤勉を称えたもの」とされる「明安き夜を日に継や水車 井月」(あけやすきよをひにつぐやみずぐるま)の句碑が、2010(平成22)年10月に建立された。
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❖ 「鉄人公園」句碑 「六道の堤」が近傍の「県道207号美篶箕輪線」信号交差点「笠原」から車約5分、「伊那市手良沢岡」の「県道207号美篶箕輪線」ロードサイド「下手良公民館」隣接の「鉄人公園」に、句碑「鬼灯を上手に鳴らす靨かな 井月」(ほおずきをじょうずにならすえくぼかな)が、井月没後120年を記念して、2007(平成19)年11月に建立された。
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❖ 「御園」句碑 「国道153号」信号交差点「水神橋西」から車約2分、「伊那市御園」の「県道87号伊那インター線」ロードサイド「ラーメン大学伊那インター店」前に、句碑「子供にはまたげぬ川や飛ぶ螢 井月」(こどもにはまたげぬかわやとぶほたる)が、2010(平成22)年5月に建立された。
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❖ 「かんてんぱぱガーデン」句碑 「国道153号」信号交差点「春近大橋西」から車約5分、「伊那西部広域農道」ロードサイドで「伊那市西春近木裏原」にある寒天メーカー「伊那食品工業㈱」の本社と工場周辺には、新緑や紅葉と山野草の庭園「かんてんぱぱガーデン」が広がる。その庭園に句碑「銭取らぬ水からくりや心太 井月」(ぜにとらぬみずからくりやところてん)が、2000(平成12)年4月に建立された。![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/7f/191732e9da2cdbc03e0eef2b5e71131d.jpg?1602739726)
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