小さな旅を愉しむための情報PLUS

生活圏での小さな旅を愉しむために、暮らしの歴史に目を向けた情報発信を目指します。

井上井月句碑 伊那市内(六道の堤 月見里 六道の杜)😐😐😐井上井月の終焉の地周辺に建立される句碑

2020-10-11 22:00:00 | 文学 美術 音楽

「柳の家井月」「北越漁人」などとも号した「井上井月(いのうえ せいげつ)」は、1822(文政5)年に「越後長岡藩」で生まれ、1858(安政5)年忽然と「伊那谷」に姿を現して以来、同地で放浪の生活を続け、酒を好み漂泊を主題に俳句を詠んだ俳人だ。女性や子どもたちは「乞食井月」と忌み嫌ったが、趣味人の男性たちの中には師事する者もいたという。
◇ ◇ ◇
1884(明治17)年、井月の健康不安を心配する「美篶村」(現在の「長野県伊那市」)「塩原折治(梅関)」の厄介人として塩原家へ付籍して「塩原清助」を名乗った井月だが、1886(明治19)年12月に路傍で行き倒れているところを発見され、塩原家で看病を受けるも、1887(明治20)年2月16日に66歳で没したという。
 ❖ 「六道の堤」句碑  県道207号美篶箕輪線の信号交差点「笠原」近傍の「六道堤」畔に、句碑「何処やらに寉の声きく霞かな 井月」(どこやらにたずのこえきくかすみかな)が建つ。
◇ ◇ ◇
1940(昭和15)年3月に「美篶太田窪」の「美篶小学校」裏の路辺に建立された句碑だが、1967(昭和42)年ここに移されたという。この句碑の筆跡は、臨終にあたって「六波羅霞松」の求めに応じた井月の絶筆で、井月の書や句を惜しんだ「堀内謙亮(素山)」が中心になって建立した井月の初めての本格的句碑だという。
 ❖ 「月見里」句碑  県道207号美篶箕輪線沿道で「美篶笠原」の井上井月と種田山頭火の句碑から北東へ約50メートルに、素山の句とともに井月の句「明日知らぬ小春日和や翁の日 井月」(あすしらぬこはるびよりやおきなのひ)が刻まれた句碑がある。
◇ ◇ ◇
「井上井月顕彰会」会長だった「堀内功」氏(1921/大正10年~2015/平成27年1月9日)の一周忌にあたり、同氏に俳句への道を繋げた叔父で、俳人の「堀内謙亮(号 素山)」の「徳を称え」るため、2016(平成28)年1月9日に建立されたという。
◇ ◇ ◇
「井上井月顕彰会」は、「漂泊の俳人井上井月の記憶が失われる前に、井月や門下の俳人達と井月を支えた人々の業績を文化遺産として顕彰するため」に立ち上げた会だという。
◇ ◇ ◇
また、井月の書と句を惜しんだ「堀内謙亮(号 素山)」は、井月の本格的な句碑を、地域で最も古くから建立しようと尽力した俳人だが、1940(昭和15)年3月「美篶小学校」裏「太田窪」の路傍に建立されたその句碑は、道路拡張のため1967(昭和42)年「六道堤」に移されている。
 ❖ 「六道の杜」句碑  ここ「六道の杜」に、句碑「煩悩の闇路も地蔵祭かな 魂棚や拾はれし子の来て拝む 井月」(ぼんのうのやみじもじぞうまつりかな たまだなやひろはれしこのきておがむ)が、2013(平成25)年3月10日に建立されている。
◇ ◇ ◇
国道361号「信州伊那アルプス街道」の信号交差点「下川手」から車約5分、「伊那市美篶六道原」の田園風景の中にぽつんと存在する「六道の杜」には、地蔵尊が祀られる。
◇ ◇ ◇
由緒は、「小野篁(おののたかむら)」( 802/延暦21年~852/仁寿2年)が、一本の木から六地蔵を刻んで、山城「大善寺」の本尊としたものを、1157(保元2)年「平清盛(たいら の きよもり)」(1118/永久6年~1181/治承5年)が第77代「後白河天皇(ごしらかわてんのう)」(1127/大治2年~1192/建久3年)の命を受けて六ヶ所に分けたといい、そのひとつを現在の「六道原」に、四方を開放した堂を建てて祀ったことから「六道地蔵尊」がはじまったと伝えられる。
◇ ◇ ◇
「六道(ろくどう/りくどう)」とは、衆生(しゅじょう)が、その業因(ごういん)によって、輪廻転生(りんねてんしょう)する6つの境涯をいい、3善道「天道(てんどう)」「人間道(にんげんどう)」「修羅道(しゅらどう)」と3悪童「畜生道(ちくしょうどう)」「餓鬼道(がきどう)」「地獄道(じごくどう)」(「修羅道」を含め4悪道とも)をいう。
◇ ◇ ◇
ここ「六道地蔵尊」の堂の右手奥には「賽の河原」があるが、8月6日(かつては旧暦7月6日)の「縁日祭」に、新御霊をお迎えする人々が集い、杜の松の枝に仏を乗せて家に迎えたと言われる人々の生と死の往還に感応する空間がここにあった

最新の画像もっと見る

コメントを投稿