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1882(明治15)年「山口県防府市」に生まれ、1940(昭和15)年「愛媛県松山市」で59年の生涯を閉じるまで、僧形乞食の風体で放浪漂白に徹した「種田山頭火(たねだ さんとうか)」は、「尾崎放哉(おざき ほうさい)」(1885/明治18年~1926/大正15年)とともに「荻原井泉水(おぎわら せいせんすい)」(1884/明治17年~1976/昭和51年)門下の自由律俳句を代表する俳人だ。
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ともに酒癖で生活を持ち崩した二人でもあったが、晩年の日記に「無駄に無駄を重ねたような一生だった、それに酒をたえず注いで、そこから句が生まれたような一生だった」と山頭火は記す。
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1930(昭和5)年8月2日の日記に、「樹明兄が借して下さつた『井月全集』を読む、よい本だった、今までに読んでゐなければならない本だった、井月の墓は好きだ、書はほんとうにうまい」と記し、また「私は芭蕉や一茶のことはあまり考えない、いつも考えているのは路通や井月のことである。彼等の酒好きや最後のことである」とも記す。
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山頭火は、傾倒する酒と漂白の俳人「井上井月(いのうえ せいげつ)」(1822/文政5年~1887/明治20年)の墓参を目的に、1934(昭和9)年4月14日「木曽谷」から「清内路峠」を越えて「伊那谷」に入ったが、「飯田町」(現在の「長野県飯田市」)に着到後、肺炎を発症し「川島病院」への緊急入院で危うく一命を取り留めて、目的の「井上井月」の墓参を果たさぬまま「山口県」に帰ったという。
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その5年後で、脳溢血のために没する前年の1939(昭和14)年5月3日、傾倒する井月の墓参を目的に「伊那町」(現在の「長野県伊那市」)を訪れ、「伊那高等女学校」(現在の「伊那弥生ヶ丘高等学校」)教諭の俳友「前田若水(まえだ じゃくすい)」の案内で、その目的を果たしたという。
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5月3日の「風来居日記」には、墓参の様子と、丸い墓石の井月の墓を前にしての四句「お墓したしくお酒をそゝぐ」「お墓撫でさすりつゝ、はるばるまゐりました」「駒ヶ根をまへにいつもひとりでしたね」「供えるものとては、野の木瓜の二枝三枝」が記されている。
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目的を果たした山頭火は、5月5日に「伊那町」を出発し、「西箕輪村与地」(現在の伊那市)から「権兵衛峠」を越えて、その夜は「楢川村奈良井」に泊り、その後「福島町」「上松町」「名古屋市」を経て山口県に帰っている。
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「俳諧井月終焉の地」とされる「伊那市美篶末広」に、井月の句碑とともに山頭火の句碑が建つ。酒と旅を愛した山頭火の句碑「井月の墓前にて 山頭火 お墓したしくお酒をそゝぐ お墓撫でさすりつゝ、はるばるまゐりました 駒ヶ根をまへにいつもひとりでしたね 供へるものとては、野の木瓜の二枝三枝」は、墓前に捧げた句を山頭火自筆の「風来居日記」から抄出して、1998(平成10)年5月「伊那市美篶末広太田窪」路傍に建立したという。その後の道路拡張によって、2010(平成22)年12月に井月の句碑と同じ経緯で現在地に移設され、ともに西方を望んでいる。
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「伊那市美篶」の県道207号美篶箕輪線「笠原交差点」近傍には、墓参時に伊那で詠んだとされる「なるほど信濃の月が出てゐる 山頭火」の句碑が、2008(平成20)年5月に建立されて、「井上井月」の句碑「出来揃ふ田畑の色や秋の月 井月」に並んで西方を望んでいる。また、国道153号(旧道)「伊那橋」には、「あの水この水の天龍となる水音 山頭火」の句碑が、井月の句碑「柳から出て行舟の早さかな 井月」に対面して、2000(平成12)年7月に建立された。
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「伊那市高遠町勝間(いなし たかとおまち かつま)」にある枝垂桜の名所として知られる「勝間薬師堂」には、「太鼓たたいてさくらちるばかり 山頭火」の句碑が、1992(平成4)年11月に建立されている。
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「勝間薬師堂」とは、1603(慶長8)年、現在地に「真言宗法臺山妙光寺」として開創されたが、安永年間(1772~1781)に廃寺となって、「行基(ぎょうき)」(668/天智天皇7年~749/天平21年)作と伝えられる「薬師如来」などが祀られる「薬師堂」だけが残ったのだという。敷地には安政年間(1854~1860)に植樹されたという樹齢約150年の枝垂桜の巨樹が枝をひろげて、里山中腹に拓かれた田畑と一体になって鄙なる春の景色を見せてくれる。なおここの枝垂桜は、「高遠城址公園」のタカトオコヒガンザクラから約一週間遅れて見頃となるという。![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2f/31/fb2e40fea3aebc1c4abdf52bb44cb853.jpg?1601633699)
1939(昭和14)年5月3日に井月の墓参という目的を果たした山頭火は、5月5日「西箕輪村与地」から「権兵衛峠」を越えた。酒と旅を愛した山頭火の「風来居日記」から、5月4日と翌5日を抄出し、そこに記された句「あの水この水天竜となる水音(伊那) 寝ころべば信濃の空のふかいかな」とともに刻んだ文学碑が、「伊那市西箕輪」の国道361号沿い「こやぶ竹聲庵」前に、1998(平成10)年5月に建立されている。
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1939(昭和14)年5月3日に井月の墓参という目的を果たした山頭火は、5月5日「西箕輪村与地」から「権兵衛峠」を越えた。酒と旅を愛した山頭火の「風来居日記」から、5月4日と翌5日を抄出し、そこに記された句「あの水この水天竜となる水音(伊那) 寝ころべば信濃の空のふかいかな」とともに刻んだ文学碑が、「伊那市西箕輪」の国道361号沿い「こやぶ竹聲庵」前に、1998(平成10)年5月に建立されている。
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なお、国道361号は、「伊那市高遠町[」で国道152号から分岐し、「中央アルプス」の「権兵衛峠」を越え、「木曽谷」を経て、飛騨「高山市」に至る中部山岳地帯を横断する路線だが、かつては車両の通行ができず、「開かずの国道」と言われた道路だという。2006(平成18)年に「権兵衛トンネル」が開通し、現在は「権兵衛峠道路」区間が新道となっている。![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/66/ca/3e14aafcc208b0c0a6ddda9243e150a3.jpg?1602888556)
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