「ねじ式 復活篇2011」はゲージツ路線で往く。芸術ではない。芸術への洒落。この洒落を通用させたい。ゲージツだ。漢字に直せば、「芸」の「実」。しかし芸実とは書かない。あくまでもカタカナが過激であり滑稽である。そして、やさしい。
稽古場では「ゲージツ」なる謎めいたラッパが吹き荒れる。宗教ならばお経みたいなものだ。ありがたや、ゲージツ!・・・刈り上げとオカッパが目に浮かんできた。
つげ義春さんの漫画を読んでいると、その過激さとやさしさが同居しているから面白い。
劇にも過激さとやさしさを同居させたい。ここに美しき狂気が浮かび上がってくる仕掛けを作る。
狂気と正気は表裏一体。醜い正気もあれば、美しい狂気もある。劇が現実を超える瞬間があるとすれば、謎が謎を呼ぶところにある。台詞や活字を超える感情が爆発する瞬間にある。
その起爆剤が役者だ。悲しい時に笑う。可笑しい時に泣ける。・・・つげ義春に繊細なこころのひだを感じるのだが、劇ではそのひだが役者の肉体や表情で表現されることになる。
台詞を覚えるだけでは追いつかないのだ。それ以上のことが起こらないと劇にはならない。
それを楽しみに見てくれるお客さんがいる。お客さんが気付いてくれて、私たちを支えてくれるようになった。今がその時だ。
「ねじ式」のラストは謎めいている。人の血でボートは動いているのである。それを伝えるだけの劇にはしたくない。理解を超えたところにゲージツはある。
ならば、血とは何だろう。ここに謎がある。
青汁を飲みながら、最後の場面に台本は辿りついた。後は稽古場で練ろう。まずは、役者へのラブレターとする。
血の復活。2011年はロボット演劇に反旗を。
稽古場では「ゲージツ」なる謎めいたラッパが吹き荒れる。宗教ならばお経みたいなものだ。ありがたや、ゲージツ!・・・刈り上げとオカッパが目に浮かんできた。
つげ義春さんの漫画を読んでいると、その過激さとやさしさが同居しているから面白い。
劇にも過激さとやさしさを同居させたい。ここに美しき狂気が浮かび上がってくる仕掛けを作る。
狂気と正気は表裏一体。醜い正気もあれば、美しい狂気もある。劇が現実を超える瞬間があるとすれば、謎が謎を呼ぶところにある。台詞や活字を超える感情が爆発する瞬間にある。
その起爆剤が役者だ。悲しい時に笑う。可笑しい時に泣ける。・・・つげ義春に繊細なこころのひだを感じるのだが、劇ではそのひだが役者の肉体や表情で表現されることになる。
台詞を覚えるだけでは追いつかないのだ。それ以上のことが起こらないと劇にはならない。
それを楽しみに見てくれるお客さんがいる。お客さんが気付いてくれて、私たちを支えてくれるようになった。今がその時だ。
「ねじ式」のラストは謎めいている。人の血でボートは動いているのである。それを伝えるだけの劇にはしたくない。理解を超えたところにゲージツはある。
ならば、血とは何だろう。ここに謎がある。
青汁を飲みながら、最後の場面に台本は辿りついた。後は稽古場で練ろう。まずは、役者へのラブレターとする。
血の復活。2011年はロボット演劇に反旗を。
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