劇団夢桟敷「週刊月曜日」
〈第22号 2022.10.24発行〉
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【「怨」の狂気と優しさは共存する】
①劇団史生成の1979年
いずれにしても迷走することが生成-発展-消滅のエネルギーになってきた。
ressentiment(ルサンチマン)は日本語で「怨念」と訳される。
劇団を旗揚げした1979年の前年は「怨」の字が躍る同人誌BLACK HALL(黒い社交場)をガリ版刷りで200部程度、第4号まで発行していた。
「怨が躍る」とはいかにも怪しい。しかし、この「怨」は社会に向かうのではなく内向的なものだった。失恋、貧乏生活、アレが食いたいコレが欲しい!など無臭の屁のようなヘッ、文芸同人誌。
ブラックホールは、現在の劇団夢桟敷の前身であり、一見怪しげな文芸集団に思われて熊本の狭い少数派からは面白がられた。
面白がられた理由は流行に乗り遅れた化石のような古いことを愛好していたからか?
例えば「自由な言論」や「わいせつ・暴力」など。心情新左翼崩れ屁のような!ヘッ。
その後、熊本から東京早稲田へ場を移し、劇団ブラックホールの演劇活動に変容した。
変容した演劇は遅れて現れたアングラ劇だったか?
カビが生えている、と言われたことがある。
社会活動や市民運動とはほど遠く、「怨」と言っても「私怨」そのもの。
私念は自分のことを不幸だと思う「私の不幸探し」だったろうか?
「私探し」は「私の不幸」か?若者の特権でもある。不幸に同調する。
若者特有の将来に対する不安や劣等感に悩まされた犯人探しのようなもので、抽象の反権力反権威、私闘の旗印に過ぎなかった。
抽象の!ヘッだったと言えば自虐か。(笑)
当然、商業演劇や芸術路線には向かわず、これまた抽象のアングラ演劇やサブカルチャーとして自らを強引に位置づけた。
1979年-1984年の東京時代のルサンチマン劇は〈私闘〉だった。
公的には新聞や週刊誌から引用された事件や犯罪がタイトルとなった。
謎が残る。…20世紀末の犯罪は貧困化が原因では治らないのか?
②黒い幟旗に「怨」の字を染め抜いた水俣病闘争(デモ)が1971年頃、私(山南)が学生時代を送った熊本市繁華街(アーケード街や花畑公園)でも見られ、その光景が焼き付いていた。
ニュースで見ていた水俣の闘争が目の前にあった。
熊本で過ごすようになって水俣が遠い世界ではなく、近くの日常に思えるようになった。
それは水俣の友人ができたこともあり、何度か水俣に行く機会があったからだった。
私が学んだ大学のサークルには水俣研究会もあり、公害に関する本などもそこで読んだりしていた。ここでの研究スローガンは「よみがえれ水俣」だった。公害から環境問題まで幅広いテーマに及んでいた。
何よりも人間!このサークル周辺は心優しい女子たちが眩しかった。
難問は連帯が容易なことではないことも見えた。
公害闘争には生活困難や身体の不自由、チッソの企業や国、行政の理不尽な扱い、患者さんを補償する認定や裁判は今でも続いている。
「学生さん、水銀の魚を食ってから革命や解放を語れよ。」
これは地元の人たちの本音として聞こえた。学生が鬱陶しく思えたのだろう。
生活者と学生との間には見えない壁を感じた。
学生集団の中には新左翼党派拡大(オルグ)や内ゲバもあったようだ。
水俣で闘うことは単なる主導権争い、政治レベルでは解決できない問題もあるようだ。
ベトナム反戦や沖縄返還の次に水俣は扱われていたのではないだろうか?
デモを見ると「怨」の旗の中に、ぽつんと一本「人間」の旗があった。水俣研究会の学生だった。
③黒い旗の光景「怨」が1970年代当時のアングラ演劇の登場と重なって見えたから、今でも不思議に思える。
新たな!公害という現実の問題、アングラ文化という新たなサブカルチャー。
悶々としながら若者たちは既成の生活に疑いを持ち、反戦や反公害、音楽や美術、演劇までも新たな世界を拓く、暴れる、挫折を繰り返す時代が1968-1972の激動だったのだろう。
激動は内乱の様相にも見えた。
1979年。座長夢現(坂本真里)が早稲田大学文学部に編入し、私(山南)が熊本から追っかける形で東京で劇団の公演活動をするようになる。
右も左もわからない東京体験だった。
遅れて来た演劇青年たち。なんちゃって、演劇青年という自覚は一切なかった。
運良く、出会ったのが演劇団(現在の流山児★事務所)の流山児祥氏、それを機に転位21、天井桟敷、状況劇場、黒テントなどを追っかけた東京で5年間を過ごす。
(注、「など」の中には暗黒舞踏や早稲田界隈の演劇、アングラ第三世代の劇団も含まれる。)…。
④【現在】
劇団の旗揚げから43年、
何故、MINAMATA PROJECTと銘打って劇団夢桟敷は本年よりスタートしたか?
社会的問題も含めて、演劇で表現し得る「人間」ドラマを追求しよう。
これまでも1945年沖縄地上戦「劇」や1908年からの日本人ブラジル移民「劇」に取り組んだことがある。終わらないテーマだ。
戦争も移民の歴史も生存者が亡くなる一方、水俣病も同じくあらゆる方面から語り継ぐ必要を感じる次第です。
演劇は〈時の歴史教科書〉に止まらず、時を越える時間旅行だとも思える。
その力を信じて「不知火」と「苦海浄土」に映像とひとり芝居で挑戦する。
私たち劇団夢桟敷のスタート地点「怨」の点検と少なくとも地元熊本での若い世代との確認の時期に来ていると思われる。
つづく