《鎌倉八百ヶ谷戸》Web写真集(PCの大画面で見てほしい)
鎌倉の西の入口のひとつ化粧坂を例にとってもいい。
あるいは龍口寺の西の境川岸を考えてもいい。
鎌倉の周縁(端)の辺りには市が立っていたり、遊女がいたりして賑わっていたようだ。
では名越の切り通しの東、逗子側はどうだったのだろう。
現在、名越の切り通しの逗子側は住宅地になってしまったが、その端の急坂を歩いてみると、切り通しが坂下まで続いていたのではないだろうかと想像される地形が遺されている。
さて、このような切り通しの写真を見ると、今、鎌倉の端っこの風景は、なんて寂しいものだろうと感じられるのだが、住宅地の坂道を降って逗子に向かう辺りは結構賑わっていたのかもしれない。
そもそも、鎌倉の入口を「七口」としているところが間違いなのかもしれない。
逗子駅の東に田越川が流れている。
その東岸に刑場があったようだ。
とすれば、鎌倉の東の端は逗子の田越川辺りという考え方もでてくるのだ。