Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

一人より二人、二人より三人

2022年02月06日 | 日記
私の夫が牧師をしている教会では木曜日の夜に聖書の学びとお祈りの会を毎週開いています。最初は二人でしたが、徐々に一人、二人、三人と加えられ、多いときには六人集まることもあります。聖書の学んでみたいという方で、祈り方がわからない、人前で祈るのを躊躇される方は、祈ってもらいたいことを分かち合い、他の人が祈るのを聞いています。この会に集まることで、お互いの今困っていること、悩んでいること、また感謝したいことも含めて話せる範囲で分かち合い、お互いのために祈りあうので、自然と親しい間柄、家族のようになれるのでとても幸いです。

 独りの祈りも大切ですが、このように複数で祈るともっと力があります。最初の教会ができた頃、使徒ペテロが迫害のゆえに、ヘロデ王により投獄されました。すでにヤコブが捕らえられ殺害された直後でしたので、信徒たちは一つのところに集まって熱心にペテロのために祈りました(使徒言行録12:5)。すると、その祈りは聞かれ、天使によって奇跡的にペテロは牢から脱出でき、また公然とイエス様の福音を皆に話し続けることができたのです。イエス様は下記のみ言葉にあるように、「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。 」と言われました。そしてイエス様も見えないけれども、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」とあり、心を一つにして祈っているその祈りの中にいてくださっているという約束は、複数で祈る強みに確証を与えてくれます。

 複数で祈ったとしても、祈りの聞かれるタイミング、方法は私たちの思った通りではないことがあります。また、上記の迫害の時代に、皆が殉教しないように互いに熱心に祈っていたことでしょう。しかし、現実は信仰のゆえに殺されたクリスチャンは大勢いました。それは祈りが聞かれなかったのではなく、その時は悲しいけれども、神様はその殉教された人々を通して次の世代へつながる何か計画があったのだと信仰で受け止めたいと思います。その悲しみはいつか天国で再会できるという喜びに変えられるという希望も与えられています。一方、もし自分に都合の良い祈りがすべて、すぐにきかれてしまったとしたら(例えば今すぐ100万円宝くじ当たりたい)、世の中はどうなるでしょうか。自分には把握できない多くの他者の都合や願いが、私の思いと都合と相反する可能性があります。その相反する人の祈りも、イエス様のみ名で同時に神様に祈られているのです。結局、すべての人の状況を把握できるのは、神様だけであります。祈ったことは必ず聞かれていて、神様のタイミングと方法でその祈りが答えられるのは感謝です。その神様に委ね、どうなるか任せるのが一番だと思います。

 私は個人的にこの数か月、様々なハプニングが起き、どうなるのだろうかと思うことが同時多発、仕事の忙しさも倍増し、今この時期をどうやって乗り越えられるのか思い煩いが多くあります。しかし、その都度心は不安になったとしても、祈ったことは神様に必ず聞かれているという信仰が与えられているので、不安で寝られなくなるということはありません。自分の思う通りにならなくとも、神様に委ね、「たとえそうでなくとも、神様の導かれる道へ進んで行こう」と聖書の言葉に日々励まされて、歩んで参りたいと思います。

「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」 マタイによる福音書18:19〜20