おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

大学時代の難治性うつ病診断から這い上がり、減薬に取り組み、元気になろうとしつつあるひと(硝子の??30代)のつぶやきです

大岡昇平が『野火』のなかでベルクソンに言及した理由-大岡昇平と小林秀雄とベルクソン哲学①-

2024-10-21 07:25:07 | 日記
大岡昇平の作品には、小林秀雄という孤独な魂に対する共感と批判を内包しているものが多いように、私には、思われる。

また、これは、河村徹太郎や中村光夫といった小林秀雄周辺の批評家たちと決定的に違うところにも、思われる。

大岡昇平と小林秀雄に共通する問題意識とは、思考の原理性、つまり理論の徹底性ではないだろうか。

大岡昇平は、小林秀雄のもっとも良き理解者であると同時に、もっとも手強い小林秀雄批判者でもあったのだろう。

大岡昇平の小林秀雄批判は徹底しており、それは、もっとも根本的な地平でなされたようである。

たとえば、大岡昇平は、小林秀雄がベルクソン論である「感想」を連載するとすぐに、「小林秀雄の世代」と題する小林秀雄の「感想」に対する論考を発表しているのだが、小林秀雄の「感想」対して確りとした論評を加えた人は、大岡昇平だけであったのではないだろうか。

言い換えれば、小林秀雄について語る人は多いが、小林秀雄が「感想」で提出したような問題を、正当に受け止めた人は(→小林秀雄の持っている原理的な思考に対する関心が、大岡昇平以外の人には欠如しているため)、大岡昇平以外にはいないのではないだろうか。

大岡昇平は、小林秀雄の世代の特質について『小林秀雄の世代』のなかで、

「哲学は現在不思議に流行らなくなった学問である」
と述べた上で、
「しかし小林秀雄の世代は、相対性理論についても日本の科学者の間で一致せず、哲学が科学を『批判』すると信じられていた時代に、成年に達している。
『哲学概論』が高等学校の必修科目であり、タレスから新カント派に到る哲学史を新カント派の立場から記述して、諸学問の上に君臨していたのである。
岩波の『哲学叢書』が今日の修養書のように売れていた。
デカルト、カント、ヘーゲル等の名が、たとえわからなくても、わかろうとしなければならない本として、本屋や図書館の書棚から、少年を見下ろしていた。
私は前から西田幾多郎を除いて、プロレタリヤ文学以前の日本文学を論じる不備を感じていた。
『善の研究』と倉田百三『出家とその弟子』のように直接の系統は常に辿れないとしても、小林の論文が「人生斫断家ランボオ」以来備えていた思弁的構造は、大正の哲学的雰囲気をなしには説明できないと思われる」
と述べ、
「最近小林の批評の先駆として、佐藤春夫をあげる説が出ているが、そこには根本的に態度の相違があると思う」
と述べている。

小林秀雄に関して、このような問題を提起した人は、大岡昇平だけではないだろうか。

これは大岡昇平自身にとっても重要な意味を持っており、大岡昇平のなかに、哲学的、原理論的な志向性がすでにあったからこそ、小林秀雄のなかの、哲学的、原理論的な志向性に目をむけることができたのであろう。

少し前の回で述べたが、小林秀雄と理論物理学の密接な関係を指摘したのも、大岡昇平であったことを思い出してほしい。

大岡昇平にだけ、そのようなことが可能であった理由は、大岡昇平のなかに、小林秀雄とは無関係に、既に小林秀雄と出会う前から、哲学的、原理論的な、大岡昇平独自の志向が芽生えていたからではないだろうか。

大岡昇平の哲学的、原理論的な志向性は、大岡が『小林秀雄の世代』のなかで書いているように、小林秀雄と同年の生まれで、7歳上の従兄である大岡洋吉の影響下に始まっているようである。

大岡昇平は、
「僕の文学的青春は、昭和三年の二月、小林秀雄に会った時から」始まると言っているが、本当にそうだろうか。

大岡昇平に、詩作を「手に取るように」教えてくれた大岡洋吉と、鈴木三重吉主宰の童話雑誌『赤い鳥』に童謡を投稿することから大岡昇平ははじめているし、「漱石、龍之介、春夫、直哉、そして、カントやゲーテを洋吉さんのあとをついて歩いて」教わり、読んだ大岡少年は、小林秀雄と出会う前に、すでにこの従兄大岡洋吉の手助けにより、ある程度の文学的、思想的な主体性を確立していたのだろう。

確かに、大岡昇平にとって小林秀雄の影響は、圧倒的であったが、大岡昇平の文学的な骨格を形成したのものは、小林秀雄と出会う以前のものであったのかもしれない。

このようなところに、大岡昇平が、小林秀雄と多くの問題を共有しながらも、微妙な対立を示した原因があるのだろう。

大岡昇平は、大岡洋吉から小林秀雄への転換について、
「洋吉さんの教養は広かったが、音楽はなかった
と述べており、素朴実在論的な大岡洋吉の下を離れ、認識批判を武器にあらゆる形而上学(文学)の批判を目指していた小林秀雄の下へ走ったようである。

しかし、大岡昇平は、この転換を、本当に突きつめて考えたわけではなかったのだろう。

大岡昇平が、この問題に本当に直面したのは、フィリピンの戦場においてであったようである。

戦争という極限の体験によって、大岡昇平は、「小林秀雄的なもの」つまり「批評」に本当に直面し、その時、大岡昇平の前に現れたのは、小林秀雄と出会う前の大岡昇平の姿であったのだろう。

大岡昇平は、『野火』という、敗残兵がフィリピンの荒野を彷徨し、「人肉喰い」の場面に直面する小説のなかで、村の小さな会堂に「十字架」を発見した時のことについて、

「然し私はその十字架から目を離すことが出来なかった。(中略)十字架は私に馴染みのないものではなかった。
私は生れた時、日本の津々浦々は既にこの異国の宗教の象徴を持っていた。
私はまず好奇心からそれに近づき、次いでそのロマンチックな教義に心酔したが、その後の私の積んだ教養はどんな宗教も否定するものであり、私の青年期は『方法』によって、その少年期の迷蒙を排除することに費やされた」
と書いている。

大岡昇平は、小林秀雄を知る前に、キリスト教を信仰していた時期があり、「私の青年期は、『方法』によって、その少年期の迷蒙を排除することに費やされた」というのは、大岡昇平のなかの小林秀雄的体験を指しているのだろう。

大岡昇平は、小林秀雄を知ることによって、大岡洋吉を捨て、キリスト教を捨てた。

それは、徹底した実体論の批判であり、宗教批判であったようである。

大岡昇平とキリスト教は、必ずしも共通しているわけではないのだが、大岡昇平のなかにあっては、「小林秀雄的なもの」に対立するものとして、共通な価値を持ち、ここで「十字架」は、「小林秀雄的なもの」に対立するものの象徴といえるかもしれない。

既に、批判し尽くし、捨ててしまったはずの「十字架」から眼を離すことが出来なかったのは、大岡昇平が、ここで、小林秀雄的な批評の本質に、観念的にではなく、現実的、具体的な次元で直面したからであろう。

そして、大岡昇平は、
「少年期の思想が果たして迷蒙であったかどうか、改めて反省して見た」のである。

もしそれが、すべて未熟な感覚の混乱の結果に過ぎなかったとすれば、今更、戦場の中で、少年期の迷蒙に心を動かされることはないはずだろう。

しかし、遠くに見える「十字架」から眼を離すことができないという現実は、否定することが出来ないし、もし、この現実が、夢でも虚偽でもないとすれば、「十字架」を否定し、捨てさせた「小林秀雄的なもの」こそが誤謬ではないのか、ということになってしまわないだろうか。

大岡昇平は、続けて、

「もしこの感情が人性に何の根拠も持たないならば、私がそれを感ずるはずがない。
そういう感情を無視した、或いは避けて通った私のこれまでの生活は、必ずしも条理に反したものではなかったが、もしこの感情に少しでも根拠があるのならば、以来私のこれまでの生活は長い誤謬の連続にすぎない。
私はこの点に関し、かつて決定的に考えたことがなかったのに気がついた」
と書いている。

大岡昇平の小説は、『俘虜記』であれ、『野火』であれ、徹底して考える小説であるが、その考える対象は「小林秀雄的なもの」、つまり「批評」であったように見える。

大岡昇平は、戦場という極限の状況のなかで、批評を具体的に検証し、その本質を解明し続けたといってよいのではないだろうか。

小林秀雄と大岡昇平のあいだの微妙な差異は、ふたりのベルクソンに対する態度のなかにもあらわれている。

小林秀雄が、ベルクソン哲学を全面的に受け入れ、それを思考の原点に据えているのに対し、大岡昇平は、ベルクソン哲学に多大なる関心を示しながらも、それを全面的に受け入れているわけではないようである。

むしろ、大岡昇平は、最終的には、ベルクソン哲学と根本的に対立している。

たとえば、『野火』のなかに、

「事実を思い出すかわりに、私はこういう想起の困難もまた初めての経験ではないことを、近代の心理学で『贋の追想』と呼ばれている、平凡の場合にすぎないのを思い出した。
既知感だけあって、決して想起できないのをその特徴としているが、それは事実既知のものではないからである。
ベルクソンによれば、これら絶えず現在を記憶の中へ追い込みながら進む生命が、疲労感或いは虚脱によって、不意に前進を止める時、記憶だけ自動的に意識より先に出るために起きる現象である。
この発見はこの時私にとってあまり愉快ではなかった。
私はかねてベルクソンの明快な哲学に反感を持っていた」
と書いている。

このベルクソンの「贋の追想」については、小林秀雄も『感想』のなかで詳しく述べているが、小林秀雄のなかには、ベルクソンに対する反感はほとんどなく、小林秀雄は、ベルクソンの主張を全面的に受け入れ、それを自分自身の思想として血肉化し、その批評の原理としている。

勿論、大岡昇平もまた、長い間、ベルクソン哲学の影響下にあったようである。

大岡昇平が、ベルクソンの明快な哲学に反感を持っていたということは、言い換えれば、小林秀雄に反感を持っていたということかもしれない。

大岡昇平が、『野火』のなかベルクソンに言及したのは、「十字架」を通じて、少年期のキリスト教体験を想い起こす、すぐあと、である。

大岡昇平は、ベルクソン哲学の記憶理論によれば、大岡が、戦場で想い起こした少年期の感情も、「贋の追想」のひとつになってしまうことを知っていたようである。

もし戦場での想起を肯定するのであれば、まず、ベルクソンの記憶理論を否定しておかなければならない。

それこそが、突然、大岡昇平が、ベルクソンを持ち出した根本理由であったのだろう。

また、大岡昇平にとって、ベルクソンを論破することは、小林秀雄を論破することであったのかもしれない。

ベルクソンのいう「贋の追想」とは、今まで一度も体験したことのないことが、記憶としてよみがえるというものである。

大岡昇平が訳したベルクソンのことばによると、それは、
「絶えず現在を記憶の中へ追い込みながら進む生命が、疲労、或いは虚脱によって、不意に前進を止める時、記憶だけ自動的に意識より先に出るために起こる現象」である。

大岡昇平は、このベルクソンの考え方に反対する。

もし、ベルクソンの記憶理論を受け入れるならば、大岡が、今、戦場で、敗残兵として思考する内容は、すべて、疲労と虚脱による幻想ということになってしまうからであろう。

大岡昇平は、現在の感覚の内部にその原因を探し、そこに生きているという現実の問題から、この問題を解釈したようである。

その結果、大岡昇平が得た結論は、
「未来に繰り返す希望のない状態におかれた」とき、今、行っていることを、もういちど行いたいという繰り返しの願望が、生命のなかに、生まれるのではないか、ということだろう。

このように考えることは、大岡昇平にとって、今、戦場で考えていることは、疲労と虚脱による異常な思考ではなく、
「今生きていることを肯定する」
ことであったのてまはないだろうか。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

今日も、頑張り過ぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。