
読後、表紙を見たりパラパラとページをめくったりしました。
そうしたら、表紙の裏の紙の臙脂色がとても気になりました。
与謝野晶子さんの
『臙脂色は誰にかたらむ血のゆらぎ春のおもひのさかりの命』
という歌を引っ張り出して、詠われている内容と物語の内容とは全然違うのに何だかぴったりだわあ、と思ったりしました。
血を連想する赤ではなくて、ちょっと茶色がかった赤の臙脂色がとてもいいと思います。
暴力をふるう側も受ける側も、少年たちの心の中にある行き場のないゆらぎ。
親も家も学校も友達も先生も選びようがなく、山々に囲まれた閉塞感と成長していく稲とそれでも流れていく川、渡るためにある橋、その中で、少年たちは少年たちの心で引きずられるように日々を過ごしていくようすが丁寧に描かれていきます。
ラスト、壮絶な暴力を受けていた稔が反撃します。
この反撃の爆発の、かなしさ。刃物を振り回し人を傷つけ痛めつけるときの彼のかなしみの痛々しさ。描かれる暴力よりも描かれない心のうちが痛いです。
ものすごいエネルギー。そのエネルギーの源は復讐です。しかえし、というよりやっぱり復讐の方がしっくりきます。
それほどまでに、歩は稔をいじめたのか?と歩が自分に問うのと同じように不思議に思いました。それで、私なりに想像してみました。
教室で何事かあると室谷先生は歩を呼び出して話を聞きますが、同じように稔を呼び出してそれとなく歩のことを言っていたのではないか…。
晃が稔に暴力をふるったのも、先生が絡んでいるのではないか…。
そもそも先生があと2年で廃校する学校に、しかも敵対する地域の学校にわざわざ転任してきたのはなぜか…。
晃が上級生から受けた暴力の原因は何なのか。
ずっと前の世代から続くいざこざがあって、もしかしたら、そのいざこざに先生が絡んでいたりするのではないか。
歩や晃や稔が演じた「オツベルと象」の物語も、言ってみれば復讐劇。
もしかしたら、室谷先生が一番のオツベルなのかも。
もしかしたら、私が気づかないだけで、先生のほかにオツベルはいるのかも。
壮絶な暴力のラストから、どうやって先生の、あるいはほかの誰かの本当の姿を炙り出し、どうやって裁くのか。
この物語は、言ってみれば、白象が書いて赤衣の童子に渡した手紙。
それを受け取った読者は、どうやってオツベルから少年たちを助け出すのか。
ものすごく、難しい問題を突きつけられるのです。

