君を守ろうとする猫の話 / 夏川草介

2024年11月29日 | あ行の作家
君を守ろうとする猫の話の「君」って主人公の中学生ナナミちゃんのことかと思って読み始めたのですが、「君」って読んでいる私のことだった…(^^;)
いや、私ってちっぽけな話じゃなくて、私を含めて「私たち」ってことなのね…

いやいや、違うだろう!!
猫もナナミちゃんも守ろうとしたのは「本」だろう?
消されてしまう本たちを、決して消させない!!!って、消されてなるものか!!!って勇気をふりしぼって猫とともに戦ったナナミちゃん。

そうそう、守ろうとした、守ったのは確かに「本」。
でも、結果的にそれを読む私たちが守られたってことでしょ?

社会には欲がたくさん溢れていて、もっともっと便利に、もっともっと楽に、もっともっと強く、そんなもっともっとに攻め立てられているような。

本だって、もっともっと読みたいよね。
でも、限りはあって。

私の読む力にも限界があって、読みたいのに読めば面白いのもわかっているのに、でも何だか進まない…。
そんな時、その本を置いて、この「君を守ろうとした猫の話」を読み始めました。
そしたら、一気とは言えないまでもスイスイ読めて。
本って不思議ですね。


「本」のお話なので、「嵐が丘」や「ルパン全集」、「はらぺこあおむし」「フレデリック」その他たくさんの本たちが登場します。
読んだ本が登場すると誇らしいけど、読んでいない本はどこか気持ちがちくちくしてまだ読んでなくてごめんよ、、、」って思ったり、「読むからね」って気持ちになったり、そんな自分のいろんな気持ちに気づけるのも「本」の楽しさ。
「本」ってやっぱりいいよね♡

ということで、先日、図書館を旅するように隅々まで歩いてみました。

いつもは、借りる本のところくらいしか行かないのですが、奥へ奥へ入ってみたらそこにもテーブルとイスがあって。人がいたり。
いつもの窓から離れて違う窓から外を見たら、当たり前だけど違う景色が見えたり。
宇宙のこと、木や花や草のこと、いろいろな国、いろいろな学問、食べ物、職業、台所、空間、音楽、服、ありとあらゆるものがずら~~っと並んでいて
で、それで、どこにいても静かなの🎵最高じゃん🎵

その最高な場所の図書館なのですが、肝心の「図書館で読書」はなぜか、しないのです(^^;)
たぶん、突然泣いたり笑ったりできないから、、、じゃないかと自己分析しています。
百面相しながらの読書はひとりに限ります。

だいぶ脱線してしまいました…。

思うに、
さあ、みんなこの辺りで一呼吸しませんか?
という時期に入ってきたんじゃない?
それとも、このまま、もっと便利に、もっと楽に、もっと早く、もっと強く、って走り続ける?
君はどう思う?
というのが、「君を守ろうとした猫の話」ではないかしら?

後退も前進?

そういえば、ナナミちゃん、戦いに行っては戻って、行っては戻って、を繰り返していた…。

戻れるんだよね、いつだって。

で、戻れる術が「本」なのです。



<本文より>

「言葉を用いればすべてが伝わるというものではない。突き詰めれば、対話で伝えられるのは、言葉の意味ではなく、伝えようとする意志なのだと言ってもいい。心が伝われば、意味内容はあとからついてくる。そんな当たり前のことが、しかし今の世界では転倒してしまっている。心の伴わない冷たい言葉のレンガを隙間な組み上げて、それを論理的だと称し、論理的でさえあれば伝わると思っている。冷え切った論理など、一杯の温かな紅茶にも及ばない」





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ほとほと / 高樹のぶ子

2024年11月28日 | た行の作家

新年 ほとほと
春  猫の恋/春の闇/エイプリルフール
夏  翡翠/鳴神月/出目金
秋  笹まつり/秋出水/月の舟/銀杏
冬  牡蠣殻/寒椿
春  夜の梅/小町忌/帰雁
夏  竹落葉/紫陽花/滝壺
秋  星月夜/虫時雨/栗の実/身に入む
冬  寒苦鳥




歳時記の季語をタイトルにした一回読み切りの24篇の短編集。

一篇が10ページくらいの歳時記物語集なのですが、その一篇の端的さに驚かされます。
高樹のぶ子さんの筆力があっての物語です。

季語、例えば、「ほとほと」(新年の季語)

「ほとほと」
 中国地方を中心にその年の幸福を予祝して小正月に行われた行事。 簑や笠、風呂敷などで顔や体を隠して神の化身に扮した若者が家々をまわり、鏡餅などの縁起物を置き、かわりに餅や祝儀をもらった。 家々の戸をたたくときの音、又は家々をまわるときに唱える「ほとほと」という声が名前の由来といわれている。

この家の戸を叩く音をテーマに描いた物語「ほとほと」は、インパクトがあって、艶やかで、ちょっと不気味な感じもあったりして、楽しめます。
何より、ハッピーエンドがいいです。幸福感、大事ですよね。

「ほとほと」を検索したら万葉集のこの歌に出会いました。

中臣朝臣宅守と狭野茅上娘子の贈答歌
「帰り来 (け) る人来たれりと言ひしかばほとほと死にき君かと思ひて」 

ーーー流刑地から戻った人が来ていると聞いて、死ぬほど嬉しかったのに、あなたが帰ってきたと思ってーーー

季語とは違う「ほとほと」ですが、万葉集でも歌われていた言葉なのですね。
そして、この本の「ほとほと」の主人公の女性もこの和歌の女性と同じような気持ちを味わっています。

目が覚めたら隣に寝ているはずの人がいなかった…。この絶望感。
絶望感の手前の死んでしまうほどの幸福感があっての絶望感。涙が出そうになります。
万葉集のふたりがその後どうなったのかわかりませんが、物語の「ほとほと」では絶望感のままでは終わらせません。そこからが高樹のぶ子さんの真骨頂。
絶望感ののち、また幸せを描いていきます。このジェットコースター的な絶望と幸福が最高なのです。

現実的なものなのかどうかはもはやどうでもよいこと。
例え、空想であったとしてもあの世的であったとしても、読み手の私もとっても幸せ。この世からあの世へ飛んじゃうくらい。

この世にはいろいろな人がいて、いろいろなことを胸に抱えて、いろいろなことを頭に描いて、背中に背負って、毎日を手探りながら歩いている…それを改めて思いました。

思い描くことは自由だから、亡き人との逢瀬も会話も自由、縮こまるのではなく、のびのびとそれを楽しんだらいい。そんな感じで語られています。

そして、たまには「ぎゃふん!!」とやられちゃったりして。それも仕方ない。そんな鷹揚な24の物語たち。読後は愛しさが残りました。



<あとがきより>

豊かな情緒が濃縮された季語は日本の宝です。その濃く詰まった一語を水に浸してゆるゆるとほどき、思いのままに物語として開放出来る幸せを、噛みしめ味わうことの二年間でもありました。

いつしか無限脳のような、あの世とこの世を結ぶやわらかな世界が出現したのも、季語の魔力だろうと思います。








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始まりの木 / 夏川草介

2024年11月17日 | な行の作家
「少しばかり不思議な話を書きました。
木と森と、空と大地と、ヒトの心の物語です」 --夏川草介


第一話  寄り道  【主な舞台 青森県弘前市、嶽温泉、岩木山】
第二話  七色   【主な舞台 京都府京都市(岩倉、鞍馬)、叡山電車】
第三話  始まりの木【主な舞台 長野県松本市、伊那谷】
第四話  同行二人 【主な舞台 高知県宿毛市】
第五話  灯火   【主な舞台 東京都文京区】


図書館で借りる本を探すとき、どうしても読みたい本以外はまずはタイトルを見ます。
それから手に取って、カバーを眺め、パラパラページをめくって、後は気分次第(^^;)。

前記事の「雷と走る」はどうしても読みたい本でした。

この「始まりの木」は存在さえ知らないで、手に取ってカバーを見た瞬間、いせひでこさん、だ~~~♫とにやりとしました。私はいせひでこさんの絵本が好きなのです。
なので、迷うことなく即借りることに。

大きな樹、その懐の中に入って幹にくっつくようにして、高い枝の先を見上げるのが好きなのですが、それは枝を通して神様を見ていたのか、私は…?
と読後思ったりしました。

さて、物語ですが、足の悪い(口も悪い)大学で民俗学を教える古屋神寺郎准教授と同じ大学の院生の藤崎千佳さんが旅先で出会う不思議な出来事をテーマに、何故民俗学なのか、民俗学とは何か、日本人とは、神とは仏とは???を語ります。こういうととっても固く難しく思いますが、全然そんなことはなくてとても読みやすくスイスイ読めて、読んでいると准教授の言葉にジーンとしてきます。
このジーンとしてくるところが私が日本人であるが故、なのではないか、とか、私の中の遺伝子がジーンとさせるんじゃないか、そんなふうに考えてみたり。

物語にも登場する民俗学の父と呼ばれる柳田國男さんのことも全く知識がないのですが、この本に書かれていることを考えるとどこかしら宮沢賢治さんに繋がるる気がしてきます。
「遠野物語」も読んだことがないのですが、「遠野」繋がりのような(^^;)
と言うのも、私も少々「遠野」に繋がりがあるのですよ(^^;)

それからこの物語は、ミステリーの要素もあったりします。
何故、その地に赴くのか?その地に何があるのか?
まあ、行く先は准教授古屋神寺郎の思うがまま、なのですが、その思うがままを、弟子の藤崎千佳さんが解き明かしていきます。
そこにもうひとりのイケメン秀才弟子を始め、すべての登場人物が魅力的に絡んできます。

続編が出ればなあ、と思ったりしますが、ドラマ化映画化も面白そうです。
准教授はNHKBS心旅の火野正平さんで、藤崎千佳さんは、、、う~ん、誰だろ???
年齢は合わないけど、今は亡き竹内結子さん。正平さんも年齢は合いませんね…。
なら、江口洋介さん?「旅の準備をしたまえ」って、かっこよく決めてくれそうです。

そんな想像も楽しい物語です。

脱線してとりとめのない文章になってしまいました…。


<本文より>

「もちろん仏教の中でも心信が大事だって話はたくさんある。けれど、もともとは難しい理屈なんかない。大きな岩を見たらありがたいと思って手を合わせる。立派な木を見たら胸を打たれて頭を下げる。大きな滝を見たら、滝つぼに飛び込んで打たれるし、海に沈む美しい夕日を見て感動する。誰かが教えたわけでもなく、みんな、そうするべきだと感じただけの話さ。それがこの国の人たちの、神様との付き合い方だ」


「観音様ってのは、天から光り輝く雲に乗って降りてきてありがたいお話をしてくれる特別な仏のことじゃない。心の中にある自然を慈しんだり他人を尊敬したりする心の在り方を例えて言ってる言葉だ。、昔から心の中に当たり前のように住んでいた観音様を、忘れはじめているのが日本人ってわけさ」
だから、と片眉を上げてまたにやりと笑った。
「亡びるね」


「これからは”民俗学の出番です”」




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