喜寿から始まる

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二つの真実?

2018年06月16日 | 日記

真実って一つのはずでは?
理想としては、そうかもしれないが、究極の真実を知ることは難しい。
ということで、過程では、複数の真実があるということかもしれない。

マイクル・コナリーの「TWO KINDS OF THRTH」
深刻に考えることになった。

裏表紙のコメントによると、
the kind that won't die and the kind that killsとか、
これは刑事ものなので IF THE TRUTH DOESN'T GET HIM・・・
THE LIES WILL・・・
を手掛かりに解釈すると、二種類の真実とは
  「本当の真実」と「嘘の真実」という意味ではないかと思う。
本当のことを言っても犯人逮捕できないのなら、嘘を暴けばいいということになる。

問題は、「嘘の真実」の「嘘」を証明することが非常に難しいことである。
なぜなら「本当の」真実は意図的あるいは熟慮されていないことが多いが、
嘘つきのもっともらしい「嘘の」真実は、騙すことを意図し熟慮してなされている
ので嘘だとの証明する、わからせるのが、ほとんど不可能なことが多い。
「捜査官が証拠をねつ造したという」ストーリーはみんなに受け入れられやすい。
そこに100%信頼できる科学捜査DNAの結果がプラスされると
捜査官のねつ造で冤罪、30年間無罪の罪で服役、というマスコミ受けする
「嘘の真実」が生まれるのである。
本当の真実ではあるべきはずのないところにある人のDNAがあった(嘘の真実)
というなら、唯一の説明は、DNAがどこかから運ばれてきたということである。
突拍子もない説明なので、大抵は、信じてもらえない。
ということで、嘘の真実が本当の真実として、通用することになる。

もちろんこの小説では、不可能だと思われるからくりを暴くところに
面白さがある。そういえば、前作か前々作かの「CROSSING」も同じくDNAが
運ばれてくるトリックであった。
小説では、そういう奇跡?がおこるが、実世界ではそうはいかない。
ということで、残念だが、嘘の真実が本当の真実としてまかり通ることになる。

この小説でも、みかけ本当とみえる嘘の真実を、みごと嘘と暴くのであるが、
暴けたとしても完全に名誉回復とはならないことや、そもそも人間というのは
誰一人として「pure and innocent」ではないと、この主人公は、完全には
喜べないのである。
という複雑な思いを持ちながらも、気持ちを新たに、つぎの事件捜査に飛び込んで
いく。信頼関係で固く結ばれた相棒とともに・・

身近なことを考えると嘘の真実が本当の真実としてまかり通ていることがいっぱい
ある。嘘をつき、他人を陥れる人は、自らの経済的苦境を脱するためで
あったり、あるいはただ嫉妬であったりといろいろである。
30年、40年というスパンで考えると、いや、嘘が暴かれるということは永久に
無いのかもしれないが、それでも、自分を信じて、日々、気持ちを新たに
生きていくこと・・・

著者のマイクル・コナリーは、レイモンド・チャンドラーの小説を読んで
作家になることを決意したという。
レイモンド・チャンドラーの
「タフでなくては生きていけない。やさしくなくては生きていく資格がない」
という有名な言葉を思い出した。

 

そう、人生とはいろいろ矛盾に満ちたもの。それでも生きていくもの。